都響スペシャル「第九」
[出演]
指揮/アラン・ギルバート
ソプラノ/クリスティーナ・ニルソン
メゾソプラノ/リナート・シャハム
テノール/ミカエル・ヴェイニウス
バス/モリス・ロビンソン
合唱/新国立劇場合唱団
[曲目]
ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ短調 op.125《合唱付》
都響第九公演を聴く。今年は珍しくすみだトリフォニーH。ひょっとすると都響がこのホールで第九をするのはコレが最初で最後かも!?文化会館はバレエの様子。
2階中央ど真ん中の前列で聴けたこともあり、非常に良い音を堪能できた。音が拡散しないから迫力もあり良かったのではないか?
アラン・ギルバートは中低音を豊かに響かせながら中速なテンポでグイグイ進んでいく。ブライトコプフ旧版使用なのもオーソドックスでよい感じ。音が痩せていることもなく、でもスタイリッシュに仕上げていく、というのが全体的な印象か。
印象的だったところは座席の関係も大いにあるのだろうけれど、第4楽章で歓喜の歌に繋がる最初のチェロのppが初めて聴くくらいの繊細さだったのと、トロンボーンの旋律が浮かび上がっていて立体的な響きだった。今回、独唱陣は全員が外国人だけれど、モリス・ロビンソンが質・声量,そして表現力において非常に雄弁であった。珍しく合唱は二期会じゃなかったけど、このホールで二期会で聴いてみたかったなー、と無いものねだり。
ともあれ安定感のある充実した第九で今年も締めくくりで良かった。
大河ドラマ「どうする家康」雑感。
通読というか、通視聴(こんな言葉ないけど)して思ったことメモ。
①1年間を通して思ったことは原作の小説がない分、最新の研究や解釈を盛り込んだ意欲的な家康像が出来ていたように思う。江戸時代の神君家康とも、逆に明治以降の狸親父とも異なる、人間家康を描いたドラマになったなと感じる。
②人間家康にフォーカスしたドラマだったから三河家臣団との青春群像劇的な要素が結果として強まったかなとも。
そして神君でもなく、信長・秀吉的な天才ではなく、普通の人が努力と忍耐と家臣らの支えによって遂に「元和偃武」を成し遂げるという、親しみのある話になった。
③最終回は演劇人・三谷幸喜の「鎌倉殿」と違って「ドラマ脚本家・古沢良太」的処理だった。ある意味でエンタメはハッピーエンドというみんなが幸せになる最終回になっていた。
鯉のエピソードやえびすくいが印象的に最終回のエピソードに回収され、軽やかなラストである。
④もっとも、「鎌倉殿」のまさに演劇的なラストシーンの演出とは正反対に、瀬名と元康が出てきたり、城下の遥か遠くに現代の東京が写ったりと、許せない人がいそう。そういう視点も含めて「軽やか」なラストであろう。
新しい研究動向も知ることができたので学びも多かった。
朗読劇「スプーンの盾」を観る。
職場の方から急遽、VOICARION『スプーンの盾』の代打を受ける(シアタークリエ)。この芝居も初めてだったし、朗読劇自体が久しぶりだった(新国立劇場で観た「オズマ隊長」以来だと思う)。アクションが結構入るのかと思ったら、結構ガッツリした「朗読」劇だった。それでも面白いのは各キャラクターが立っているのと、話自体が面白いのと、生演奏だからか。
ストーリーはナポレオン、タレーラン、アントナン・カレーム、マリー(マリー=アントナン・カレーヌからとった?)の4人による群像劇とでも言うのか。この芝居の売りは3週間くらいにわたって色んなキャストによって読まれるので、古典芸能的な面白さがある。演者による違いを楽しむという、クラシックや落語的な楽しみが出来る芝居だろう。
以下、箇条書きで感想。
・ナポレオン(石井正則)は歴史的にも身長が低かったし、その喜怒哀楽の表現は割と実像に近かったのでは?と思わせる印象。
・タレーラン(安原義人)は評伝が専門書くらいしかないので、イマイチ実像が分からない。(メッテルニヒはあるのに)
雄弁なる最後の演説なんかは大河ドラマのキャラみたい。
・カレーム(榎木淳弥)は榎木淳弥を初めて見た。榎木カレームはずいぶん優男というか好青年カレームである。もっとも、今回の石井ナポレオンと安原タレーランが強烈なので食われていたきらいはある。
・マリー(日高のり子)は少年時代のカレームを演じるとまさにジャン。(←ふしぎの海のナディア)
食卓外交の話とか、カレームの伝記(マンガ伝記が出ているようだ)とか、政治史ではないフランス革命史とかも面白いだろうな,と思った。
これ関係を電書を探ったけれどあんまり出ていないんだよなぁ。
冬休みの宿題。積ん読が増えていく。。。
東京都交響楽団 第988回定期演奏会Aシリーズ
[出演]
指揮/大野和士
ピアノ/ニコライ・ルガンスキー
[曲目]
レーガー:ベックリンによる4つの音詩 op.128
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調 op.1
シューマン:交響曲第4番 ニ短調 op.120(1851年改訂版)
都響の定期演奏会に行ってきた。
レーガーを途中まで興味深く聞いたけれど、どうだろう。やっぱりポピュラーにはなれないかな。(N響でやっていたモーツァルトの主題による変奏曲とフーガは面白いなぁ,と思うんだが。そっちをやってくれれば良かったのに。)
ラフマニノフのピアノ協奏曲1番はルガンスキーをソリストに迎えたこともあって、録音で聴くよりよほど楽しめた。作曲者の思い入れは分かるが、2、3番にはなれないかな。ルガンスキーはマシンのように弾き切るけど、ところどころ抒情性があって、多分コレで2、3番やったら客席は盛り上がっただろう。逆にだからこそA定期は1番やる意義があったんだと思うが。
似たような事例で、チャイコフスキーのp協奏曲第2番もほとんど演奏されない曲なんだけれど、あっちの方は不当な扱いのような気がするんだよなぁ。むしろもっとフォーカスされて良い。もっとも、ロココ風の主題による変奏曲も滅多に載らないから難しいだろうなぁ。メンデルスゾーンのピアノ協奏曲とか、定期で採り上げても良いと思うんだけれどな。颯爽とした良い曲だと思うけど。
閑話休題。
シューマンの4番は弦がしっかり弾き切っているので爽快。
ただ、大野和士は弦をスッキリと弾かせているので、団子化したような響きを期待していると、「シューマンのオーケストレーションが下手だというやついるのかよ!?」という勘違いを招く(笑い)。
一方で、シューマンの“あの響き”が好きな人には物足りないかも。
ただ、3曲並べるとシューマンの才能が光っていた。やはり天才である。
東京都交響楽団 第987回定期演奏会Aシリーズ
[出演]
指揮/小泉和裕
ピアノ/イノン・バルナタン
[曲目]
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 op.23
プロコフィエフ:交響曲第5番 変ロ長調 op.100
都響定期演奏会。バルナタンをソリストにチャイコフスキーのピアノ協奏曲1番とプロコフィエフの交響曲5番のプログラム。チャイコフスキー目当てか、普段の都響定期では見ない客層であった。
あまりバルナタンは調子が良くなかったのか、練習が足りていないのか、オケと息が合わないところが目立つ。ピアノパートのところは緩急、強弱をつけながら弾いていたがイマイチどう言う曲にしたいのか全体としてはまとまりに欠けていたように思う。オケは小泉の伴奏は横綱相撲であり、微動だにしない構えなのだが、どうも噛み合っていないのだ。ただ、それがプラスに作用して1楽章終結部分は流石の迫力。
楽章が進むにつれて次第に良くなっていったが、それでもこのコンビのシンクロ率的には半分くらいだったかなぁ,と思った。なお、興奮した聴衆が1楽章の時点で拍手とブラボー。
プロコフィエフは都響の機能美を十分に堪能。セルの名演を(あれは端正だったけれど)もっと開放的にスケール大きくした感じ。終楽章コーダの部分は弦楽器群のアンサンブルの精密さが印象的であったのと、木管群が真っ先にカーテンコールで称えられていたくらい、まとまりのある演奏だったと思う。
コンマスは水谷氏。四方氏が退団したし、補強する必要あるんだろうなぁ。優秀な若手を育てるのもアリだろうし、どうなる!?
葵トリオコンサート@さいたま
プログラム
今日はさいたま市文化センター(南浦和)小ホールにて葵トリオのコンサートを聴く。
「さいたま市文」といえば夏の吹奏楽コンクールの南部地区会場として使われるが老舗ホールの埼玉会館(浦和)や日本フィルの会場となっているソニックシティ(大宮)と比べるといささか印象が弱い。ただし、音は多目的ホールなのだがそこまで悪くない(所沢ミューズは別次元)。広報が不十分だったのか、65~70%くらいの集客。昨冬の紀尾井ホールでのコンサートは売り切れていたし、他のホールも同様だと言うからコレは主催者側の姿勢が問われよう。
プログラムはドビュッシー、メンデルスゾーン、ラフマニノフというボリュームある組み合わせ。演奏はあとになればなるほどエキサイトしていた。個人的には曲に対する練られ方はメンデルスゾーンが一番だったように思う。
ラフマニノフは実演だとピアノパートがさすがと思わせるが、いささか重たかった。ドビュッシーはウォーミングアップ的になっていたが、なかなかの作品。
葵トリオは例えばカザルス・トリオのような超強烈な個性はトリオというわけではないが、そこは大学時代からのお互いが分かっている者同士が持つ、絶対の安定感と息の合ったアンサンブルはまさに三位一体とでもいうべき領域に達している。あと、若いからメンデルスゾーンのような曲は素晴らしい。ホールの響きはややデッドながら、(チケット争奪戦にならなかったから)良いポジションで聴くことが出来たし、大変良かった。
人生初の「内田光子体験」
モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K. 503
シェーンベルク:室内交響曲第1番 作品9
モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K. 595
人生初の内田光子をサントリーホールで聴く。
マーラーチェンバーO.とモーツァルトの25番、27番。あと、シェーンベルクの室内交響曲1番。
何から書こうか、今でも分からないけど、とにかく凄かった。
25番はオケから始まるけれど、あの人数でちっとも音の薄さを感じさせない。何という迫力だろう。それを引き継ぐ内田光子のピアノは柔らかく、でも、芯はあり、それでいて決してうるさくならない絶対の境地だ。なんか聴いていてうまく言い表せないかと思ったけれど、「幽玄」っていう言葉が今の自分の語彙では限界だ。今までどのピアニストからも聴いたことのない音である。
27番はもともと曲が彼岸にいっているような曲だからいっそう際立っている。このピアノの音は何なのだろうと考えてしまったけれど、当たり前だけれど打鍵が決定的に違うのだ。2楽章と3楽章で。展開部と再現部で…。
書の世界で近代詩文書などを目にするとき、落筆の位置があげられるけど、それによって絶妙な滲みがその周りに出てくる作品がある。それと同じような世界で(だから幽玄)、その一方で華やかではないが軽やかな肩の力が抜けた音もある。内田光子の視線の先には一音一音でどんな音を出すべきかが明確に見えている。これは凄いことだ。間違いなく彼女のピアニズムは歴史上の巨匠たちに連なっていて、一世一代の、彼女だけの芸であろう。
この音楽を同時代に聴けることは素晴らしい。
なお、後半から上皇ご夫妻も聴きに来られていた。とても素晴らしいコンサートだったので、きっと帰りの車中でも楽しく会話が弾まれたであろう。
軽く旅行できてしまうチケットではあったが聴けたことが一生思い出に残るような体験だった。