あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

マリア・ジョアン・ピリス ピアノ・リサイタル

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 Op.13「悲愴」
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 Op.31-2「テンペスト
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調Op.111

 昨夜はマリア・ジョアン・ピリスの来日リサイタルを聴いてきた。オケばっかり聴く自分には客層が違うことに気づかされ、また客席に着くと端々からピアノの先生の会話が聞こえてくる。ただ、聴いている曲の幅や演奏家は多分、好事家の方があるだろうなぁ、とも思った。ステージに現れたピリスは老いたところなど一切見せない舞台姿であった。すっと、イスに座って、早々にピアノを弾き出す。オール・ベートーヴェン・プログラム。悲愴、テンペスト、32番だ。月光の第1楽章、オクターヴを超えて弾くあたりを聴きながら「この運指ではベートーヴェンは弾ききれない」と、感じた瞬間があったのではないか。恐らく、モーツァルトであればそうは思わなかったのかもしれない。
 キャリアを積むに従ってベートーヴェンに傾斜していったピリスにとって、ベートーヴェンが彼女の理想とする水準で弾ききれないことは、自身のキャリアを考え直す充分な理由になったのかもな、と。更に言えば、このあたりで満足、という達成感があったのかもしれない。
 インタビューとか全然追いかけてないから、憶測ではあるんだけれど。それはテンペストの1楽章を聴いていても感じた。残りの人生を若者達とのマスタークラスで教え、交流し合いながら閉じたいと考えるのは、アルゲリッチもそうだけれど、音楽を次の世代に伝えたいという一種の祖父母の心境に近いのかもなぁ、なんて余計なことを思ったりした。

 ただ、技術的に完璧でないことと演奏会の感動は次元がまるで異なる。個人的には32番が生涯、耳にすることは出来ないであろう演奏だった。聴きながら、1楽章が人間の命の誕生と宇宙の創造を、また3楽章がそうした世界を描きながら、この世界の人びとの喜びであることが、舞台からこちらに映像が送られてくるような感覚がしたのである。なんだか宗教的でうさんくさい表現なのだけれど。ホントに言ったかどうかは分からないけれど、朝比奈隆は「ベートーヴェンは人間の全て」と表現した。彼岸にいながらも、それでも最後まで人間とこの世界(宇宙も含めて、なんだろうけれど)を追い求めたんだなぁ、と。使い古された表現だけれど「精神性」なるものは、この演奏を聴け、と言えば済むことなのだ。力で圧倒、とは異なるベクトルでサントリーホールの中を満たしていた(ココの表現が難しい)。
 アンコールはクアジ・アルグレット。年度初めで、月曜も都響定期に行っていたから、仕事的にも肉体的にも相当キツかったのだけれど、その代わり得たこの経験は、自分の音楽人生の宝にもなったから、ヨシとしたい。

東京都交響楽団 第852回 定期演奏会

東京文化会館

指揮/大野和士
メゾソプラノ/リリ・パーシキヴィ
児童合唱/東京少年少女合唱隊
女声合唱/新国立劇場合唱団
マーラー交響曲第3番 ニ短調
 2018年度最初の都響定期はマーラーの3番を音楽監督大野和士の指揮で聴く。このコンビによるマーラーでは一番の出来だったと思う。「知将」とプログラムでも呼ばれているが、確かに内面に深く沈み込むそのスタイルはハマれば感銘を受けるのだけれど、音楽の流れや曲そのものの持っている構造的なエネルギーが削がれる嫌いがある。それで言えば、今回の3番はこの世界に対する(マーラーとしては)肯定的なフィナーレとも相俟って、かなりの親和性を持っていたと思われる。2楽章は大野自身もっとも力を込めていた楽章だけ合って、流れるような音楽の中にも陰影に富み、かつ穏やかな空間があった。
 個人的には独唱のリリ・パーシキヴィがハマっていたと思う。この曲はかく歌われるべし、という自信というか革新的なものが説得力を持っていた。合唱もクセがなくて良い。3番はバーンスタイン(旧録音)やバルビローリなどが個人的な好みなのだけれど、今回の演奏も匹敵しうる感動を得た。良かった!

東京都交響楽団 第849回 定期演奏会

指揮/エリアフ・インバル
ショスタコーヴィチ交響曲第7番 ハ長調 op.60《レニングラード

 都響/インバルによるショスタコーヴィチレニングラード」を東京文化会館で聴く。冒頭から厚みのある弦の合奏に人々の日常を感じ、彼方からやって来る軍靴の足音が徐々に迫って来る感じは鳥肌が立つほど。人々の生活が戦争の不条理に飲み込まれ、人間が踏み躙られていく。戦争のテーマが咆哮するところで文化会館の舞台に鐘塔が崩落していく感覚を覚えたのだ。機関銃によって次々人々の生が奪われるような音楽。同時代に生まれたインバルにとってみればこの曲は自らの生と地続きなのだ。直感的に戦争の実相が伝わってくる。ああ、コレはそんな曲なんだ。圧倒的な説得力。
 第2、第3楽章は純音楽とでもいうのかな。そこにあった生活への回顧、その後に現れた社会のグロテスクな現れ。解説にも、色んなところで読んだけれど、その現れは反ファシズムや反全体主義なのだろう。クラクフ旅行で見た、ナチスユダヤ人政策に関する博物館資料やプラハ旅行での社会主義博物館、語彙が貧困でうまくは言えないけれど、その時感じた時代性みたいなもの感じた。なんか書いていて、スピリチュアルな気持ちの悪さがあるんだけれど(苦笑)、あれはなんなんだろうか。第4楽章の白兵戦的な場所はちょっと現代っぽいというかハリウッドっぽいというか、サクサク戦っている!?
 もっとグッとテンポを落としてやるのかな、と思ったけれど、違うんだなぁ。ともあれ、この辺り、インバルの薫陶を得た都響が弾くと合奏能力の高さも相まって、とてつもない迫力だ。それがそのままコーダに連なるのだから、圧巻である。永遠に記憶に残りそうなショスタコーヴィチだと思った。
 昨夜のインバルを聴いたあとにも思ったが、この国で名匠・巨匠とされる条件は80歳を過ぎてもなお矍鑠と活躍できる健康に恵まれる必要があるのだろうな。最近もエリシュカ、ブロムシュテット、(デュトワを入れても良い?)。ちょっと前ならスクロヴァチェフスキ、フルネ、ヴァント、朝比奈隆・・・。彼らを「シルバーシート」と言って馬鹿にする向きもあるが、自分はそうは思わない。作品に対する、ある種の「答え」を提示するだけの経験と、そこへの踏ん切りに加えてオケに遠慮なく振る舞える貫禄とオケ側の尊敬が合致した時、名状しがたい奇跡の瞬間が生まれるのだと思う。

東京シティ・バレエ団創立50周年記念公演『白鳥の湖』〜大いなる愛の讃歌〜

指揮/大野和士
オデット オディール/中森理恵
ジークフリード王子/キム・セジョン
芸術監督/安達悦子
演出・振付/石田種生
演出(再演)/金井利久
演出助手/中島伸欣

美術/藤田嗣治 ©Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo 2018
美術製作/堀尾幸男
照明/足立恒
衣裳/小栗菜代子
衣裳製作/工房いーち
大道具製作/東宝舞台
舞台監督/森岡

チャイコフスキー白鳥の湖

 東京シティバレエ団/東京都交響楽団の伴奏で「白鳥の湖」@東京文化会館を観てきた。今回はチケットが都響ガイドで買えたのでなかなかの良い席で観賞できた。東京文化会館はもう100回以上足を運んでいる(たぶん200回まではいかない)けれど、バレエは実は初めてで、楽しみだった。もともとがそうした設計だから、というのもあるけれど、文化会館の舞台やホールの全体の作り方ってオペラやバレエに向いているな、と改めて実感。オーケストラピットを覗くことは出来なかったが、どうだろう?かなりオケは人数がいるような迫力ある音量だった。指揮は大野和士
 前回はレニングラード国立バレエ白鳥の湖だったが、東京シティバレエ団も藤田嗣治の舞台美術を再現し、観る者を圧倒させる。そして人数がいるから個々の身体性や技量よりもマスとしての迫力がある。なによりオペラかと見まがうほどの衣装もまた、素晴らしい。演奏も都響の伴奏はシャープな切り口かつダイナミズムに溢れるものであった。レニングラードの時はやはりレガートの「甘さ」があってそれはそれで良いんだけれど、純音楽的にさえ聞こえてくるのは素晴らしい。バレエ音楽という枠を超えて、音だけでも充分に楽しめる!
 どうしてもオペラやバレエは場所柄ちょっと足が遠のくのだけれど、休日に出かけていくというのも良いかもしれない。そんなことを感じさせた公演だった。