あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

札幌交響楽団 東京定期公演

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 札幌交響楽団東京演奏会を聴きにサントリーホールまで出かけた。水曜は定例の会議があるから、今年は諦めていたけれど、奇跡的に来週の別の曜日になったのでコレは行けという天啓なのだろうと(大げさ)。
結論はいやー、行ってよかった!

 モーツァルトサントリーのハコにしては曲がチョット厳しいかな、と思ったがオーソドックスなスタイルで神経質にならない伸びやかな印象。バーメルト、うまく表現しにくいけれどクリップス聴いている時みたいに中庸ながらしみじみ聴かせる力量がある。

 ベートーヴェンのピアノ協奏曲は去年、ピリス&ブロムシュテットの極め付けの演奏を聴いているからチョット分が悪い?中低音のmpの繊細さや立体感がもっとあるといいなと思ったけれど、伸びやかさとスケール。また3楽章のダイナミズムは若い時のベートーヴェン肖像画みたいだ。

 アンコールはラヴェルクープランの墓」。面白い!
後半のブラームス交響曲第2番もモーツァルトと同じことが言える。コレ書きながら、クリップスだけじゃなくてイッセルシュテット的な方向にいる気がする。札響は弦だけじゃなくて金管にも透明感がある。今回はヴィオラとフルートが良かった。

 中庸なんだけれど、決してスケールが小さくならず、厚みがありながらも透明感のあるオケの響き。3楽章から4楽章にかけての高揚感とオケメンバーの生き生きとした表情は演奏は「play」って綴るよなぁ、って改めて実感。コーダはかなりのカロリーだった。

 アンコールはモーツァルトのディヴェルティメントからメヌエット。鳴りきった後なので、これも伸びやかでよかった。終演は21時30分。いつもの都響より45分遅い(笑い)。サントリーホールでコレだと毎回はキツイけど、たまには良いかも。

 そうそう、お土産はホクレンのとろりんぱ。
ちょうど欲しくて、どさんこプラザ行かなくちゃ、と思ったから有り難かったです。
札響の皆さん、全てを含めてありがとうございました。

NHK交響楽団 第1883回定期公演

指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット
ピアノ:マリア・ジョアン・ピレシュ

ベートヴェン
ピアノ協奏曲 第4番ト長調op.58
交響曲第4番 変ロ長調op.60

 N響定期演奏会、今日はブロムシュテット指揮によるベートーヴェン・アーベントだった。ピアノ協奏曲4番のソリストはピリスである。そうであればこそ、N響まで聴きに行くのだ。(ちょっと平日の夜にしてはNHKホールは不便)。今日は休日出勤の代休だったので、睡眠時間も万全(笑い)。通常だと、週末はもう意識が飛んでしまいそうになるけれど今回は大丈夫だった。
 ピリスはサントリーでのリサイタルに続いて、である。前回はソロコンサートだったけれど、名匠とのコンツェルトはどうなのか・・・。期待しながら聴いたけれど、まさに「音楽する」と言った感想を持った。前回のソロコンサートと同じく、技術的には万全、とは言えなかったかもしれないが、4番を宗教的に弾く(そういう演奏も必ずしも嫌いではないけれど)といった次元にピリスはなく、この曲の持つ思索的な、たおやかさ、とでもいうべきこの曲の美質が十二分に再現されていたと思う。特にメゾピアノで弾く右手の何という美しい響きだろう!
 テンポも人びとの息づかいが感じられるような穏やかなもの。遅いとかではなく、「これが自然なんだよ」と穏やかに語りかけるような、そんな音楽だった。このスタイルで聴く4番としては最高峰。ハーディングとも録音が残っているけれど、ブロムシュテットとのこの演奏を翌日も録音して記録として残しておく絶対の価値がある演奏だ。

 後半の第4交響曲は枯淡とは無縁の極めて健康的な演奏。目を瞑って聞いたら齢90を超えた指揮者の演奏とは絶対思えない。なかなかに切れ味鋭い、颯爽と、そして神経質にならない充実した響き。いまでは耳にすることがめっきり減ってしまった演奏である。それにしてもブロムシュテット若いな。

マリア・ジョアン・ピリス ピアノ・リサイタル

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 Op.13「悲愴」
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 Op.31-2「テンペスト
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調Op.111

 昨夜はマリア・ジョアン・ピリスの来日リサイタルを聴いてきた。オケばっかり聴く自分には客層が違うことに気づかされ、また客席に着くと端々からピアノの先生の会話が聞こえてくる。ただ、聴いている曲の幅や演奏家は多分、好事家の方があるだろうなぁ、とも思った。ステージに現れたピリスは老いたところなど一切見せない舞台姿であった。すっと、イスに座って、早々にピアノを弾き出す。オール・ベートーヴェン・プログラム。悲愴、テンペスト、32番だ。月光の第1楽章、オクターヴを超えて弾くあたりを聴きながら「この運指ではベートーヴェンは弾ききれない」と、感じた瞬間があったのではないか。恐らく、モーツァルトであればそうは思わなかったのかもしれない。
 キャリアを積むに従ってベートーヴェンに傾斜していったピリスにとって、ベートーヴェンが彼女の理想とする水準で弾ききれないことは、自身のキャリアを考え直す充分な理由になったのかもな、と。更に言えば、このあたりで満足、という達成感があったのかもしれない。
 インタビューとか全然追いかけてないから、憶測ではあるんだけれど。それはテンペストの1楽章を聴いていても感じた。残りの人生を若者達とのマスタークラスで教え、交流し合いながら閉じたいと考えるのは、アルゲリッチもそうだけれど、音楽を次の世代に伝えたいという一種の祖父母の心境に近いのかもなぁ、なんて余計なことを思ったりした。

 ただ、技術的に完璧でないことと演奏会の感動は次元がまるで異なる。個人的には32番が生涯、耳にすることは出来ないであろう演奏だった。聴きながら、1楽章が人間の命の誕生と宇宙の創造を、また3楽章がそうした世界を描きながら、この世界の人びとの喜びであることが、舞台からこちらに映像が送られてくるような感覚がしたのである。なんだか宗教的でうさんくさい表現なのだけれど。ホントに言ったかどうかは分からないけれど、朝比奈隆は「ベートーヴェンは人間の全て」と表現した。彼岸にいながらも、それでも最後まで人間とこの世界(宇宙も含めて、なんだろうけれど)を追い求めたんだなぁ、と。使い古された表現だけれど「精神性」なるものは、この演奏を聴け、と言えば済むことなのだ。力で圧倒、とは異なるベクトルでサントリーホールの中を満たしていた(ココの表現が難しい)。
 アンコールはクアジ・アルグレット。年度初めで、月曜も都響定期に行っていたから、仕事的にも肉体的にも相当キツかったのだけれど、その代わり得たこの経験は、自分の音楽人生の宝にもなったから、ヨシとしたい。

東京都交響楽団 第852回 定期演奏会

東京文化会館

指揮/大野和士
メゾソプラノ/リリ・パーシキヴィ
児童合唱/東京少年少女合唱隊
女声合唱/新国立劇場合唱団
マーラー交響曲第3番 ニ短調
 2018年度最初の都響定期はマーラーの3番を音楽監督大野和士の指揮で聴く。このコンビによるマーラーでは一番の出来だったと思う。「知将」とプログラムでも呼ばれているが、確かに内面に深く沈み込むそのスタイルはハマれば感銘を受けるのだけれど、音楽の流れや曲そのものの持っている構造的なエネルギーが削がれる嫌いがある。それで言えば、今回の3番はこの世界に対する(マーラーとしては)肯定的なフィナーレとも相俟って、かなりの親和性を持っていたと思われる。2楽章は大野自身もっとも力を込めていた楽章だけ合って、流れるような音楽の中にも陰影に富み、かつ穏やかな空間があった。
 個人的には独唱のリリ・パーシキヴィがハマっていたと思う。この曲はかく歌われるべし、という自信というか革新的なものが説得力を持っていた。合唱もクセがなくて良い。3番はバーンスタイン(旧録音)やバルビローリなどが個人的な好みなのだけれど、今回の演奏も匹敵しうる感動を得た。良かった!