あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

60年の時間的距離〜終戦記念日に寄せて

9日にもあったので重複するところ多いのかなぁ、と思ったものの、思うところが多いので。
今年で戦後60年。60というのは陰陽道でワンサイクルなんですか?ともかく60歳になると「還暦」のお祝いをするのはなにやらそーいうのがあるとかないとか。ともかく節目としては充分ですよね。でも戦後の総決算的要素はやはり50年だったのでしょう。今回でも小泉が行った戦没者追悼演説は基本的には村山談話を踏襲していると言う面もありますし。
世間一般で言われているほど、官邸サイドのアジア・太平洋戦争に対する戦争認識というのはタカ派のヒトが期待するほど変化しないと思う。例えば靖国神社の主張するような戦争観が内閣の基本方針となるのか、といえば、それはあり得ない。東条英機A級戦犯は被害者であったのだ、という東京裁判極東国際軍事裁判)史観を否定する靖国の論理がマジョリティを形成するとは管理人としては俄かに考えにくいです。
なぜかといえば、理屈として主張を呑むこと難しい。政治での「結果責任」を為政者が取らない国家というのは果たしてマトモなのか。「自存自衛ノ為」に始まった戦争の結果が1945年8月15日だった。あれだけの犠牲を内外に払ったものの、逆に、主権国家としての独立が認められず占領下に置かれた。本来であればそういうことに対して政治家に求められる判断力や決断力が欠如し、国民に多大な犠牲を与えた為政者はそれ相応の責任を取らないとダメでしょう。
ここで、彼らA級戦犯の罪が問われないとしたら、本人に悪意さえなければどんなことをしてもその罪は問われない、となってしまう。それはさすがにマズいだろう、と思うわけです。
確かに欠陥は多い東京裁判ですが、やらないより良かったハズです。歴史上、最善の選択をした例というのは果たしてどれだけあるのか。それを考えるとベターであることにある程度の理解をする必要があるのではないでしょうか。


さてさて、話が大分ズレてしまいました。60年というのは人生においてさえ、定年を迎え、社会にあっては「高齢者」の仲間入りになるだけの時間です。当然、戦後から60年経って「戦争が遠く」なったという論調がメディアでは多くなされています。
しかし、本当に60年という時間は「遠い」のか?管理人は「然り、否」と思います。この社会で「あの時代」を実際に生きたヒトが自分の周りを探せばいる。この状況にあって、果たして60年は「遠い」時代なんでしょうか。歴史を資料だけで調べる古代や中世etc.そこには実感するだけの歴史はないのかもしれません。(歴史学プロパーのヒトは反論するかもしれませんが…)
しかし、実際に体験したヒトの直接の声が聞ける60年前は、そこにありありと歴史を肌で実感することが出来ると思うのです。だからその意味において60年は「そんなに遠い時代ではない」というのが管理人の考えです。ただ、この時間もそんなに長くはありません。だからこそ、その重みを充分に理解していければ…と思います。