あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

国民新党と自民党政治②

今日もムネオ氏の新党大地結成のニュースがありましたね。いかにも松山千春っぽいネーミングセンス。ま、国民新党よりよほどイイですが…。今回の内容はややニュースから逸れちゃいます。しかも、ちょっと日本政治論っぽくなったんで文体も論文形式に「である」調になってますが悪しからず、ってことで。


国民新党のHP(http://www.kokumin.biz/)を覗いてみると次のような基本政策があった。

1.わが党は「改革」という名の弱肉強食の政治を阻止するために戦います。
1.わが党は中小・零細企業が活力を回復する政治を実現します。
1.わが党は破壊政治で疲弊した地方を活性化させる政治を実現します。


もっとも、これはその中からの一部抜粋であって、全部ではない。ともあれ「続きは次回」と書いた手前書かない訳にもいかないので、その象徴的な部分を抜いてみることでその「同じさ」がよく理解して貰えればと思う。
国民新党自民党政治を考える上でこの「弱者保護」、とか「地方の活性化」という要素は非常に重要だ。なぜかと言えば、知ってる人も多いと思うが自民党は1955年に自由党民主党(正式には日本民主党)が合併して出来た政党。
しかし、それを更に遡るなら、自民党は明治以来の立憲政友会の政党的性格を有すると言えるだろう。立憲政友会はヨーロッパの保守政党と同様の特徴を持っている。それは「名望家政党」と言うことである。
それぞれの地域の名士=名望家が制限選挙の下で議員へとなっていった。裏を返せば、制限選挙なので地元の名士=名望家しか議員になれなかったのである。
だから、まず最初に(その地方では)有力な議員がいて、自分たちの政治活動を円滑にすべく政党を立ち上げたわけだ。そうすると、当初から党の本部の力は強くなく、極端に言えば「寄り合い所帯」になる。従って、政党自身に体系的なイデオロギーがある訳なく、その政治的活動はあくまでも議員個人のレベルへと還元されていった。
議員たちは自らの地方へ利益を誘導し、議員としての地盤を強固にしていく。原敬内閣期において「我田引鉄」などと言われたのはその象徴である。
戦後も、保守政治家の多くはこの「地元の有力者」といった型から逸脱しなかった。というより社会状況が同じなので当然の結果でもある。自民党は名望家政党の性格を残したまま近年まで至ったのだ。そして、かつての政友会と同じように予算の分配合戦が繰り広げられたのである。それでも、1960年代からの高度経済成長は、その予算的要求に耐えうるほどの税収を政府にもたらしたのだった。
こうした中、登場してきたのが田中角栄である。田中は自らの田中派の勢力を拡大すべく積極的な財政出動を行う。つまり、地元に利益をもたらすことで、政治献金その他の協力を得るのである。そこから生まれた資金を元手にさらに派閥の規模を拡大していく。
それまでは派閥の規模は50〜60人が限度とされてきたのが、田中派は100名を超えるようにまでなるのである。勿論、あの日本列島改造論がこの文脈からのみ生まれてきたとは言わない。しかし、首相選出機能としての派閥、とその役割が変容してきてからは自民党の利益誘導政治という今日まで引きずる問題が副作用のように生じてきたと言っても過言ではないだろう。

(また次回に続きますゴメンナサイ)