あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

総選挙〜単純化の危険性と主体的判断と…。

 いよいよ明日は総選挙です。新聞・雑誌の予測と同じく、自民党が大勝するのか?それとも自公で過半数割れをして、政権交代が起こるのか?俗に言うところの「国民の審判」は果たしてどちらに傾くのでしょうね。
 かつて大平首相が「国民のバランス感覚は絶妙」という言葉を残しました。この時の選挙では自民党の優位が伝えられたにも関わらず、ふたを開けてみたら、自民党の敗北だったことからこうした言葉が出たのです。
 この現象は9月4日の「報道と選挙結果の関係〜投票行動研究を考える」id:takashi1982:20050904のところでも取り上げましたがいわゆるバッファー・プレイヤー仮説だと言われています。ですがこの仮説、55年体制では当てはまったモノの近年の調査では必ずしも当てはまらないと指摘されたりしているようです。

 さて、今回はマックス・ヴェーバー『職業としての政治』この言葉を引用しつつ、考えてみたいと思います。

権力は一切の政治の不可避的な手段であり、従ってまた、一切の政治の原動力であるが、と言うよりむしろ、権力がそういうものであるからこそ、権力を笠に着た成り上がり者の大言壮語や、権力に溺れたナルシシズム、ようするに純粋な権力崇拝ほど、政治の力を堕落させ歪めるものはない。(p.80)

 8月25日のブログ「自己争点化作業とマニフェストid:takashi1982:20050825にもあったように、あくまでも投票の基準、つまり今回の選挙争点は自分で考えなければなりません。だから「自己争点化作業」なのです。毎回、政治を「分かりやすく」と言いますが、1億2000万人の人口を誇る日本社会の問題が「分かりやすい」というのは異常であると気づくべきでしょう。
 勉強を教えるとき、物事の基礎・基本を理解させるためにできるだけ単純化して教えた経験はあるはずです。身近な例としてカレー作りを教えるとしましょう。美味しいカレーをつくろうとすると、下味の段階からイロイロやらなくてはいけないことがあったり、スパイスであったり煮込み具合であったり知っていた方が良いことはたくさんあります。
 しかし料理をしないヒトに対して教える場合はどうでしょう?最も簡単にできるカレー作りを教えるはずです。そうすると手間をかけたカレーと単純に作ったカレーとで味に差ができるのは当然です。逆に差ができない方がおかしい。
 それと同じです。政治は様々な社会問題が複合的に関わり合っておこる行為です。従って、政治を単純化することは他の大事なこと・視点(考え方)を全部削ぎ落としてしまいかねません。
 だとすると、自分の判断力と知識でもって、今回の選挙で自分が一番重要だと考える政策を投票基準にすることが適当ではないのかなぁと思うわけです。この場合、自身に政治的知識や判断力のあるなしは問題ではありません。自分に政治(あるいは社会)に対する知識や問題意識が少なくとも、その中のできる範囲で考え、選択するのが重要です。
 内閣を「政権」という言葉で同義として使うように、政権というのは「政治権力」なのです。だとすると、今回の選挙争点は権力の側が言うようなモノなのか?それとも違うのモノなのかと言うことを、冷静に判断することが必要でしょう。先に挙げたヴェーバーの言葉は私たちに主体的に考え、判断する必要を警告しているように思います。

職業としての政治 (岩波文庫)

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