あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

あっさり。ほんとにあっさり。〜『ご臨終メディア』森達也・森巣博

 「ご臨終メディア」、メディアにご臨終をかけると、メディア全体ではご臨終じゃないんだけど、ご臨終しているメディアが存在している。と言う意味にとれますよね。
 反対に「メディアご臨終」だったら、メディアそのものがもう終わっているかのように感じられます。
 タイトルは「ご臨終メディア」なので、意味するところは前者なんだろうとは思うんですけど、このところのマス・メディアの弛みっぷりを見ると後者の方が適当な感じがします。


 これは、二人の対談を文章化したもので、同じく集英社新書から出た「デモクラシーの冒険」同様の型式です。ところで、デモクラシーの冒険の一方の語り手であるテッサ・モーリス・スズキと今回の語り手・森巣博は夫婦なんですか?何かそんな話を耳にしたんですけど…。確証がないので分からないのが問題。ただ、この件に関しては調べる気が全くなく、明るい方、どうかご一報下さい。といった感じです。


 この二人、ご存じの方がいるかと思うんですが、立場的にはレフトなところにいます。この左右の対立軸は今日どこまで有効かという問題ももちろんあるんですが、何かしらの政治的立場を考える場合、左右の分類は必定だ。みたいな議論もあるわけで、こうした見解に一理あるなと思う管理人は敢えて、古いと言われるかもしれませんが左右の対立軸でもって説明しました。


 タイトルにもあるように、本著は今日メディアを取り巻く環境と、それに対しておこっている問題点について討論していると言った感じです。前回のチョムスキーのところでも書きましたが、メディアについていくらかの知識があれば分かる「タブー」的要素に切り込んでいる側面があって、「メディアは公正中立だ」と思っているヒトに対しては全く寝耳に水な展開でしょう。


 ほんの一例を挙げれば、新聞・雑誌で採り上げられる視聴率。これを測定しているのはビデオ・リサーチ社という会社です。たったの6600世帯に視聴率測定器を置かせてもらって視聴率を測定しているわけです。
 6600世帯くらいだと、統計学的に言って妥当なんでしょうか?それと同時に、問題点はそのビデオリサーチ社が電通の出資(およそ3割)でもって設立され、その社長は電通からの天下りだという指摘です。
 電通という、ガリバー的な広告代理店はその影響力でもってマス・メディアに厳然たる影響力を持っていると言われています。実際どんなことをやったのか、というのは過去に採り上げたブックレット『電通の正体』を参照にしてください。
 ともかく、テレビ業界と広告代理店の癒着関係やNHKの慣習など、問題点を上げればきりがないんですけど、この業界にいるひとなら常識だと言うことばかりですし、メディアを専攻にしている学生さんにとっても割合に常識でしょう。


 でも、そういうじゃないヒトに対して分からせるかというのも重要なことですから、興味があればぜひ読んでみてください。きっと2〜3時間あれば読める内容なので…。


 せっかくなので印象に残った箇所を。森達也はこのように述べてます。

 メディアにおけるリアリティは、本物ではなく、本物らしいと言うことです。これは決して皮肉ではなく、受け取る側の感応力が重要なんです。ベトナム戦争イラク戦争のリアリティを比べてみたらいい。あるいは30年前のビアフラと今のスーダンの飢饉。規模や被害は同じようなものです。むしろ今の方が悲惨かもしれない。でもメディアがリアルタイムに、分かりやすく、情報量が増大する過程と並行して、受容する側の想像力が消えていくんです。
『ご臨終メディア』p.183

 これは人間にとって根源的問題になるでしょう。人間相互の関係において、相手の立場を想像力を巡らせて考えるというのはその中心的構成要素となります。自由主義思想においては他者被害の原則。つまり、他者が不利益を感じる場合、自分の自由は制限される事があり得るということです。しかし、純粋に相手が不利益を感じたとしても、立場が弱かったり、訴える手段を欠いている場合にはその声は害を加える立場には届かず、自体は一層悪化するからです。
 そうしてみると、この問題は単に、良識ある人々によって社会は構成されるという自由主義的価値観の限界を示すものであると同時に、同じ人間でありながらその苦しみを捨象して捉え、あたかも、テレビ画面の向こうで起こっていることが本当なんだけど、実感として感じられないと言うことではないでしょうか。
 ここから先に行くと、他者性のはなしになってしまうので、それはまたの機会にしますが、本著は内容的には薄いものの、森の指摘は人間が実際は非常にアナログで、その意味で、その能力的限界は案外低いものなのではないかと思わせられます。