あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

文化祭の季節です

 大学では11月から文化祭の時期ですねぇ。早いところでは11月早々から。遅いところでは下旬ですか。ともかく、文化の秋ですし、なにしろ、秋は夜長なので文化活動をするにはもってこい。読書に専念するのも良いし、音楽を聴くのも、映画を見るのも良いですよねぇ。


 そんな枕はどうでもイイですか!?ともかく、文化祭なワケだったのです。先日はゼミの後輩の学生シンポジウムを見学してきました。
 内容はグローバリズムに伴う、外向きのモメントと、内向きのモメントです。もちろん、モメントの基点となるのは国家になるわけですけどね。
 ちょっと、分かり難い言い方をしてしまいました。大雑把に言ってしまえば、グローバリズムというのは経済のグローバリゼーションに伴って、世界が単一化するという概念です。
 このブログでさえ、世界中で見ることが原則的には可能なわけですよね。情報に国境はなくなりましたし、資本も絶えず世界規模で流動しているわけです。それだけじゃない、文化であってもそうですよね。
 そうした現象(グローバリゼーション)を可能とする価値観がグローバリズムとでも言えば適当かなぁ。


 そうした現状は国境を自由に越える「世界化」現象が従来の国民国家の枠組みを超えている、と見ることができるでしょう。
 それとはちょうど正反対に、ヨーロッパの極右(フランスの国民戦線オーストリア自由党あるいはドイツのネオナチなど)勢力が存在感を増しつつあるように、グローバリゼーションに対して反対するエネルギーも存在するわけです。
 これが、国民国家に収斂しようとする内向きのエネルギーです。日本においても「犯罪が増えたのは外国人が多いからだ」的な言い方をする政治家にこのところ非常に高い支持が集まったりしています。
 つまりグローバリゼーションは相反する二つの現象を生み出す、ということですね。


 ともかく、そんなところをテーマにして3年生は発表をしていたわけです。いやぁ、頑張っていたなぁ。管理人自身は、参考文献に上げられていた本を何冊か読もうかと大いに触発されたところです。うん、ガンバロ。
 この問題は政治学でも先端的な分野ですよね。いわば、結論が見えないわけですから。グローバリズムがその国家固有の文化や風習を浸食すると言っても、これに逆らっては国家の繁栄は望めないわけです。
 反対するのであれば、それこそ北朝鮮のように国家を閉鎖するとか、イスラーム諸国のように厳格な宗教戒律によって、グローバル化(欧米化?)に対する徹底的弾圧をするかなど、極端な道をとらないと防ぎようがありません。たとえばホメイニ師イラン革命のように…。


 そう考えると、日本も含む先進諸国ではそーした道を採ることは論外だろうと思われるので、自国の文化も大事にしながらどこかで軟着陸しないといけないわけですよね。それにはどうしたらいいのか?まさに千差万別です。
 それゆえに、何らかの指針が政治学に求められるのでしょうね。

グローバリゼーション (<1冊でわかる>シリーズ)

グローバリゼーション (<1冊でわかる>シリーズ)

 
 グローバリゼーションの大枠を捉えた好著。入門には最適かも。管理人もここから入ったと言う感じです。グローバリゼーションは経済面だけではなく、文化面や政治面もその構成要素であるという指摘にはハッとさせられます。
 普段グローバリゼーションを経済面だけで考えがちな傾向にある現在にとってこの指摘は非常に有効であろうと思われるので…。
 詳細な参考文献リストも、これから勉強したいを思うヒトにとっては便利ですね。

市民の政治学―討議デモクラシーとは何か (岩波新書)

市民の政治学―討議デモクラシーとは何か (岩波新書)

 高齢にもかかわらず篠原一は頑張りますね。グローバリズムグローバル化(グローバリゼーション)は異なるもので、不可避なのはグローバル化に過ぎないと言う指摘があって面白いです。チョムスキーのところでもそうですが、グローバリズム自体はアメリカニズムと分断可能なのでは?という考えも起こってきます。