あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

先祖返りに捉えられる悲哀

 世間的にはどうでもいいベタ記事なんだけど社民党が再び、自衛隊違憲とする党宣言案を採択したとする記事。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060202-00000004-yom-pol

 ただ、世の中便利なもので、こーいうときにネットは大変重宝するなぁ。実際のところはどうなのかと確認してたところ、特段そういったことではないみたいだ。

<安全保障>
 核兵器の廃絶を始め、最終的にあらゆる軍事力の保有が否定された非武装の世界を目指します。北東アジア地域の非核化と対話・協力を基盤にした総合的な安全保障機構の創設、そして東アジア共同体の実現に努力します。自衛隊の改編・縮小、日米安全保障条約の平和友好条約への転換、在日米軍基地の整理・縮小・撤去を進めます。国連の集団安全保障活動であっても、自衛隊がこれに参加して海外で武力行使することを認めず、憲法9条に基づき、国際貢献については非軍事・文民・民生を基本に積極的な役割を果たします。


 いわゆる「問題の箇所」というのはここなんだけど、別段、新聞記事のように「自衛隊違憲」を訴えているわけではないようだ。それが証拠に、「自衛隊の改編・縮小」に留まっていて、廃止までは主張しない。
 ただ、やっぱり先祖返りに写るというか、メディアからすれば先祖返りにしたいんだろうな。「あー、あそこは又バカなことをやってるよ」みたいなね。
 ただ、これしきのことはソフト化路線になった共産党も主張しているからなぁ。これでいわゆる「先祖返り」をしても全く意味をなさないばかりか、むしろ支持を減らしてしまうだろう。
 ボッビオの指摘の通り、政治的なるものは左右の対立であると考えれば、自民、民主ともに中道右派(民主は異論があるかもしれないが)的性格を持っているから、それとコントラストをなそうとするのは一面では意味があるだろう。だけど、それが極端すぎて人びとから乖離してしまっているのではないか。
 もう少し踏み込んでいえば、ユートピア的な国家像を掲げるのは問題がない。しかし、今ある現状の中でどうするか、という視点を決定的に欠いている。
 実際に、安全保障でアメリカとの間で日米安保がある。そして、9条を持つ日本国憲法と共に自衛隊が存在してしまっている。
 こうした前提でどうするか、過程を考えなければならないだろう。
 日米安保を維持したまま、次第にアジアと連携していくとかね。大枠のフレームを変えなくても、徐々にコミットメントを変えていくということなら可能ではないのか。
 (ただ、中国とは規模が非対称で難しいかも。韓半島ASEANとの関係を模索した方が現実的だとおもう…。)
 バスケみたいに軸足は変えなくても、重心は変えることができると思うのだが。
 自衛隊も、専守防衛なら可能とする村山見解で充分よかったと思う。少なくとも、イギリス労働党ドイツ社会民主党は軍事力の否定はしていない。
 つまり、安全保障政策の一点が西欧の社会民主主義政党とフォッサマグナのごとき断層をみせているのだ。どうも、日本の左派政党は「権力を自分たちでコントロールしていく」という意思が希薄だ。何らかの形で中道左派というもので政権を作ろうとするなら直面しなくてはいけない問題なのだけれどね。
 それに、そこが一種の胡散臭さに繋がっているのではないかなぁ。理論的に正しいことは重要。ただし、それを実現させるための架橋を考えることも重要だと思う。それを言わなくて理想論ばかり言っても、宗教と変わらないでしょ。

右と左―政治的区別の理由と意味

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左派右派を超えて─ラディカルな政治の未来像─

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