あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

大植英次のブルックナー第7番〜大阪フィルハーモニー交響楽団第43回定期演奏会

大阪フィルハーモニー交響楽団 第43回東京定期演奏会

2月14日(火) 19:00開演  サントリーホール

武満徹ノスタルジア(独奏:長原幸太)
ブルックナー交響曲 第7番 ホ長調

指揮:大植 英次

 朝比奈隆の没後、音楽監督を引き継いだ大植英次による多分2度目の東京定期。多分、2度目で良いんじゃないかなぁ。それ以外にも東京での特別演奏会はあったと思うんですけどね。
 朝比奈&大阪フィルとの最後の東京定期は確か第40回で、翌年の第41回は若杉弘によるブルックナーの第3番を聴いた記憶があります。
 第42回東京定期はマーラーの復活か第6番だったような気がするんだけどなぁ。都合つかなくて行けなかったと思います。

 本拠地、大坂では大植が振る回はチケット完売するようですが、今回のサントリーホールは当日券が残っていました。でも客の入りは90%を超えていたな。95%近くまで埋まったんじゃないだろうか。
 もっとも、朝比奈の時は定期公演の他に特別公演もしたにも関わらず、完売し、サントリーホールの入り口には「チケット譲って下さい」ってプラカード持ったヒトがいましたっけねぇ…。ちなみに管理人は、チケット1回逃したきりで、あとは全部ゲットしてます。
 最後の新日本フィルとのブラームス・チクルス(4つの交響曲全曲演奏会)も全て取れたし。
 気合いがあれば、ちゃんと取れるのです。最後のブルックナーの8番もね。


 さて本題へ。
 大植体制になってから、ややもすれば迫力一辺倒だった大阪フィルの音色がとてもよく練られるようになってきた、という話を聞きます。大植のコントロールによってオーケストラが非常にバランス良く演奏するようになったということですね。
 そんなわけで、今回の目的はそうした評判が果たして本当なのか、という確認と、朝比奈の下で培われてきたブルックナーの伝統がどう変わっているのか、という確認です。
 ちなみにどうでもイイですけど、2階席の最前列中央に音楽評論家で、朝比奈を激賞していた宇野功芳が来てました。よく似てるなぁ…とおもって、休憩時間に談笑しているところを近づいて見ると、やっぱり本人。
 声掛けてみれば良かったかなぁ…。でも、著書持ってなかったんだよねぇ。


 武満のノスタルジアは相変わらず分からない曲。やっぱり管理人と武満は相性が悪いらしく、この曲の素晴らしさが分からず、退屈してしまいました。先週の話じゃないけど、伊福部さんの方が良いなぁ。
 ただ、ブルックナーに武満の音楽ってプログラミングとしてはなかなか秀逸ですね。形而上的な世界観が非常に似ている。そこは素直に感心してしまいました。
 この曲の解釈としては、テンポは結構ゆっくり目なのではないかな。
 ヴァイオリン独奏の長原幸太はしっかりとした音色を聴かせて大したモノです。なんせ、管理人より1つ年長なだけですからね。そうはいっても、この曲が分かり難いのは、曲に内在している「水や霧の感覚」や「穏やかで哀歌的な気分」の表出にどれだけ成功しているかと言えば、疑問です。
 結局、どうしたいのかはっきりと分からない音楽でした。分かるようになるまでもっと繰り返し武満を聴いてみようかなぁ…。

 後半の、ブルックナーの第7番。この曲は、朝比奈・大阪フィルとの演奏と都響との演奏を聴いてます。他にも誰かの7番を聴いてる気がするけど…。
 都響でやったときは、木管をそれぞれダブらせて演奏してました。今回は指示通りだったのかな。つまり、二本ずつってことですよね。
 版も朝比奈の時のハース版とは違ってノヴァーク版だったようだし。
 途中まで、ティンパニ鳴らしすぎてないか?といった若干の違和感はあったのですが、第2楽章でシンバル・トライアングルにティンパニの強打で、ハース版っぽくないとハッキリと認識。
 とはいえ、カラヤンはハース版を基調としながら、同じ箇所でシンバル・トライアングルを加えたりと紛らわしいですけどね。
 隣の人はスコアを読み、演奏中に書き込みをしながら聴いていたけれど…。ちょっと気になってしまいました。


 ブルックナー聴かない人はチンプンカンプンでしょうが、ブルックナーは生前、なかなか世間から認められなかった作曲家だったため、彼の弟子たちが何とかして自分たちの先生の作品を世間に認めさせようと思って、ブルックナーの作品を当時の流行に合わせて派手な音色に勝手に編曲してしまったのです。
 その甲斐あって、ブルックナーの音楽(正確に言うと、弟子たちが手を加えた音楽)は次第に聴かれるようになるのですが、ブルックナーは晩年、「やっぱりモトのまま演奏して欲しい」なんて言って亡くなったという曰く付きの作曲家です。
 20世紀に入って、そうした「ブルックナーの遺言」を実行しようとして、弟子たちが手を加える前の楽譜作りが始まりました。そのひとの名前がハースだった為、「ハース版」が出来上がるのです。
 第二次大戦後、ハースの仕事に対して考えを異にする人が同じように楽譜作りを始めます。その人の名前がノヴァークだったことから「ノヴァーク版」が出来上がるのです。
 どちらも、ブルックナーが望んだ「モトのまま」の形を目指して作ったのですが、ブルックナー本人が他界して数十年と経っていたし、ハースとノヴァークで編集・校訂方針の違いがある(だから、ハース版に満足せず、ノヴァーク版を作ってしまった)ため、どちらも「原典版」を謳いながらその原典版が2種類(以上)あるというまどろっこしい結果になったのです。


 閑話休題
 演奏は尻上がりに良くなっていく感じ。1、2楽章は今ひとつだったけど、3、4楽章は出色でした。
 第1楽章も、冒頭の弦の合奏は非常になめらかで、バランス良く響いていたのですが、どうもこの楽章全体を通じて、「痒いところに手の届かない」感じがしてしょうがない。
 テンポがちょっとせかせかとしてしまって、全休符から次の曲想へ移るのに間が足りないから、ブルックナー的な響きが圧殺される傾向にあったのは事実でしょう。ブルックナーの休符に使い方は独特だから、そこを体に馴染ませるくらいのことは必要なのかもしれませんね。
 第2楽章も途中までかなり良い演奏をしていました。しなやかさとメリハリの良さが、荘厳さには欠けるものの、自然の美しさを歌うような効果を上げて(本来の曲想とは違うのだろうけれど)、充分楽しめました。
 ところが、展開部が終わる頃から、なんだかフォーカスがぼやけだして、何が言いたいのかよく分からなくなってしまう。テンポをいじるのは良いんだけれど、それが何を表すのかが的確に伝わらないから、聴いていてピンぼけた印象を与えてしまうのでしょう。
 第3楽章以降は、そのメリハリがプラスに作用している。とくにスケルツォですから、緩急ある演奏は牧歌的な側面を際だたせ、ブルックナーを聴く醍醐味を堪能させられます。
 そして最後の第4楽章も、もともとロマン的な側面が強いために、大植の解釈に良くマッチして、コーダへ向けてどんどん高揚していきます。
 コーダはまさにクライマックス。ここだけ聴けば凄いと思うに違いない。だから、終演後の盛り上がりも凄かったです。
 管理人も凄いと思った。けれど、なんだか今ひとつ感動できなかったんだよなぁ。美しい音楽が鳴ってはいたんだけれど、抜けきった感じがなかったからだろうな。そうした演奏が出来るようになるためには、歳をとる意外に途はないのだろうか…。

 とはいえ、大植英次の実力は素晴らしい。ブルックナーよりマーラーに力を発揮しそうなタイプだと思った。次回はマーラーあたりを希望。

ブルックナー:交響曲第7番

ブルックナー:交響曲第7番

 同曲の完璧無比な演奏といえばヴァントにトドメ。ここまで指揮者の意図を完全に再現した演奏も稀なのではないだろうか。いや、脱帽。ただ、この完璧さが人によっては「ツメがきつすぎる」という印象を与えるのもまた事実だろうな。 朝比奈のブルックナー指揮者としての実力が最良の形で表された演奏。ブルックナーの眠る、聖フロリアン教会での「伝説となった」ライブ録音。
ブルックナー:交響曲第7番

ブルックナー:交響曲第7番

 ブルックナー演奏を得意としたN響名誉指揮者も務めたマタチッチ。スケール雄大にして適度にロマン的な演奏は、7番にピッタリ。
ブルックナー:交響曲第7番

ブルックナー:交響曲第7番

 管理人が実演で聴いた演奏。余計な力が抜けていながら、目一杯の音とスケール感が得られるのは、朝比奈の集大成であろう。フロリアン教会の演奏と比べると、ロマン性は後退したが、彼岸のような神々しさがある。