あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

何のために情報を漏らさないのか?

まずは朝日新聞の記事から

http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20060317/K2006031702310.html?fr=rk

米国企業の日本法人が所得隠しをしたとするNHKの報道をめぐり、NHKの記者が民事裁判の尋問で取材源に関する証言を拒否したことについて、東京高裁(雛形要松裁判長)は17日、証言拒絶を正当と認める決定をした。同様に取材源秘匿を認めた一審・新潟地裁決定を支持した。「取材源に(秘密を漏らすという)国家公務員法違反の行為を要請する結果になるとしても、ただちに取材活動が違法となることはないし、社会的公共的な価値のために取材源を秘匿する必要が相応に認められる」と判断。同じ問題で読売新聞記者の証言拒絶を認めなかった14日の東京地裁決定がとった論理を全面的に否定する内容となった。

 雛形裁判長は「報道機関の取材活動は、民主主義社会の存立に不可欠な国民の『知る権利』に奉仕する報道の自由を実質的に保障するための前提となる活動だ」と述べ、「取材源が秘匿されなければ報道機関と取材源との信頼関係が失われ、報道機関のその後の取材活動が不可能か著しく困難になるから、取材源は民事訴訟法上、証言拒絶が許される『職業の秘密』に当たる」として、原則として情報源秘匿のための証言拒絶は正当な理由があると確認した。

 米国企業側は「記者が取材源を秘匿する理由は、取材源になった者が守秘義務違反を犯したからであり、取材源を保護すれば違法行為の隠蔽(いんぺい)になる」と主張したが、高裁は「保護しようとする利益は取材源の利益ではなく、取材源の公表によって深刻な影響を被る報道機関の取材活動上の利益や、ひいては報道機関の持つ民主主義社会における価値・利益だ」と退けた。

 取材源秘匿の正当性について高裁レベルで判断が出たのは、同様に記者の証言拒絶を認めた79年の札幌高裁決定以来、27年ぶりとみられる。

 地裁と高裁で随分意見が分かれました。記事にも出てますが、読売新聞の記者に証言拒絶が認められなかったのは地裁判決。今回のはNHK記者の同様な問題で、高裁は認めるとなったわけです。
 よく、地裁判決の方が革新性が強いというか、護憲性が強い判決が出やすい傾向にあるんですが、今回は全く反対で、高裁が真っ当な判断を下したという印象が強いです。
 読売の記者の地裁での判決理由に「国家公務員法違反の行為」がまかり通れば、耐震強度偽装問題国土交通省がどれだけ関与しているのか、とか防衛施設庁の談合事件といった問題も果たして表面化されたかどうか…といえます。
 どうも裁判員制度などを設けるならば、こういった問題に裁判員を加えた方が良いと思うんですけどね。どうでも良い刑事事件じゃなくて…。


 ところで、国家公務員法で定める「秘密漏洩」の禁止と、禁止することによって被るマイナスをどう考えればいいんでしょうか。
 薬害エイズ問題の時も、14日の地裁判決のような理由がまかり通れば、あれほどの問題が社会に明るみに出ることなく終わっていたでしょう。どう日本のも官僚機構は間違いを認めないという問題点がありますね。

国家公務員法の第1章第1条は次のようになってます。

第1章 総 則(この法律の目的及び効力)第1条 この法律は、国家公務員たる職員について適用すべき各般の根本基準(職員の福祉及び利益を保護するための適切な措置を含む。)を確立し、職員がその職務の遂行に当たり、最大の能率を発揮し得るように、民主的な方法で、選択され、且つ、指導されるべきことを定め、以て国民に対し、公務の民主的且つ能率的な運営を保障することを目的とする。


 このあとの第100条に守秘義務が課されているのですが、双方を照らし合わせて考えると「国民に対して、公務の民主的・効率的な運営をする」というのがやはりこの国家公務員法の骨子だと言えるのではないでしょうか?
 その目的を達成するために、守秘義務が課されているのであって、両者の関係は目的と手段だと考えられます。
 したがって、この法律の「目的」からすれば当然の行為であれば、それは尊重されてしかるべきでしょう。
 もっとも、それが法律に違反しているかどうかが裁判所によって判断されるワケなんですが…。
 そうした原理・原則から考えるとやはり地裁判決にはおかしなところがあったのではないかな、と思いますね。


 日本の官僚制は、それが出来た明治以来、常に無謬性というものが前提とされてきたフシがあります。
 明治憲法下では官僚機構の権力の正当性、つまりは統治の正当性の源泉が天皇にあったため「天皇代理人たる官僚が間違いを犯すわけがない」とされたのです。
 戦後、日本国憲法体制になってもその風潮が消えることはありませんでした。GHQ占領政策の意図もあり明治憲法制下の官僚機構は、ほとんど戦犯として裁かれることなくそっくりそのまま現代に持ち越しているからです。
 そんなわけなので、官僚機構は間違えないものだ、という意識が強く、従って、間違いがあったとしてもそれを認めることが出来ないのです。認めなければ「間違っている」とはみなされないからでしょう。

 新聞は知る権利からのアプローチをしていたので敢えて違ったアプローチで考えてみました。