あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

結局は価値観の相違なのだけれど〜「共謀罪」考


 久しぶりに旧友と会い、憲法記念日にちなんで4月30日に書いた記事の内容を話してみる。(堅いなぁ、とは思わないように…)
 質問は簡単で「憲法は国民が政府の権限を拘束する『縛り』であることを知っているか」というもの。案外みんな知らないみたいで、管理人としてはやっぱりと思ってしまう。
 法学部なら確かに憲法の講義の最初の時間に説明されるようなモノなんだけれど、やっぱりメジャーじゃないのかなぁ…。


 それと関連して、新聞に載っていた特集からちょっと考えてみる。新聞をはじめとして騒がれているいわゆる「共謀罪」について。
 共謀罪は平たく言ってしまえば、テロ活動などを事前に取り締まるべく作ろうとしている法律。ポイントはテロしてしまった「後」ではもう遅いので、テロをする「前」に捕まえてしまおうというモノ。
 ただし、法律は作ってしまえば、その後は生物のように法律自身の独自の解釈・運用をされるので、当初「テロ活動に限定」だったものが、いつの間にか「反政府的なすべての活動」に対象が拡大しないとも限らない。


 フツーに考えてしまえば、テロが起こりにくくなるし、安心だ!
 と考えてしまうのだが、この法律案に反対する野党・弁護士・NGO・識者らはこの法律案がやがて一般社会に深刻な影響を与えるのではないか、と考えている。


 実例を挙げてみよう。
 1925年に治安維持法が制定された。この法律の当初の目的は天皇制と資本主義体制の擁護であった。しかし、やがてエスカレートし、二度の改正(改正というのか微妙なのだが)を経た1941年頃になると政府に反対する思想の持ち主もその対象とされた。
 つまり、1941年当時といえばアメリカと開戦した年であり、戦争に反対する思想の持ち主も治安維持法の対象と化してしまったのである。


 そんなわけで制定された法律はやがて「独り歩きを始める」というコトを考える(ハンス・ケルゼンの純粋法学)と「共謀罪」は成立させない方が安全だといえるだろう。
 もちろん、ここで問題としているのが
・起こるかもしれないテロのリスクを減らす
・日常的に私たちの生活の思想・信条の自由が侵害されるリスク
この両者のどっちを大切かと考えることだ。

 確かに、テロのリスクは減るかもしれない。だが、テロが発生するリスクはゼロになるか、といえばそれはNOだろう。
 にもかかわらず、一人ひとりがどんな本を読み、映画やテレビを見て、サイトにアクセスをし、交友関係を持っているか…ということに警察が介入してくるようになったら…。と考えると、その社会は果たして健全なのだろうか?という疑問が起こってくるのも当然だ。
 でもこんなこと、自分はテロをする人間じゃないし…と思うかもしれない。ただ、治安維持法の例を挙げたように、法律は制定されると独自の運用を開始する。そうなったときに、テロに限らず、何らかの反政府的な態度・例えば消費税の引き上げ反対とか医療費の負担増反対とかの態度すら示すのに勇気がいる事態が起こりうる、ということだ。

 この法案は当然リベラル側の批判もあるのだが、今回は住基ネット法同様に櫻井よしこも批判をしている。以下引用。

共謀罪は暗黒社会の到来を意味する。住基ネットと合わせて、権力者が市民を監視する独裁国家になる。一体、誰が何の目的でこんな悪法を通そうとしているのか。市民の自由を守るため、思想信条の違いを超えて、共謀罪成立を阻止しなければならない」

 櫻井よしこ共謀罪反対と日頃の言動は論理矛盾を来しているとは思うのだが、この懸念は妥当だと言える。
 少なくとも、権力者が市民の自由を監視し、独裁化に繋がる恐れが出てくると言う点において、日本も海を隔てた向こう側にあるどこぞの国家をバカに出来ないような状況がやってきてしまうのかもしれない。

リヴァイアサン (講談社学術文庫)

リヴァイアサン (講談社学術文庫)

ホッブス・ケルゼンについて考察している中で最も手軽感のあるもの。
長尾龍一は日本のケルゼン研究の第一人者だと思われ、事例に精通し、安定感がある。