あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

こーいうことが出てくるからイヤなんだよな

先日、こーいう記事を発見。今日も爆笑問題の田中に脅迫状とか、田中康夫長野県知事の車座集会に児童殺害の脅迫状を送って中止に追い込んだり、狂ってるヒトが多すぎ。長野県の新聞(たとえば信州毎日新聞とか)はこーいう民主主義の否定に対して何にも感じないとしたら、ジャーナリズムとしては死んでいるな。

愛国心>通知表評価項目に 埼玉で52小学校、愛知も

 「国を大切にする」などの「愛国心」表記を通知表の評価項目に盛り込んでいる公立小学校が埼玉県で52校に上り、岩手、茨城、愛知県にもあることが毎日新聞の全国調査で分かった。教育基本法改正案を巡る国会審議で、小泉純一郎首相は「愛国心があるかどうか、そんな評価は必要ない」と答弁したが、学校現場は既に評価へ踏み出し、全国に広がる気配だ。【まとめ・井上英介、高山純二、高本耕太】
 埼玉県内の52校の所在地は▽鴻巣市行田市熊谷市深谷市騎西町寄居町茨城県内は常陸大宮市牛久市阿見町、愛知県は北名古屋市岩手県では大船渡市と釜石市で「愛国心」を盛り込む事例があったが、各県での総数は不明だ。
 「愛国心」表記の通知表が見られるようになったのは、学習指導要領が02年度に改定され、小学6年社会科に「我が国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を育てるようにする」などの目標が設定されて以降といわれる。
 埼玉県行田市では市立小全16校中14校が、現行学習指導要領の施行と同時に、通知表の6年生社会科の観点別評価項目の一つに盛り込んだ。実際の記載は「わが国の歴史と政治、および国際社会での日本の役割に関心を持って意欲的に調べ、自国を愛し、世界の平和を願う自覚を持とうとする」。担任が3段階で絶対評価する。
 現行指導要領は、小6社会科の学習目標のひとつに「国を愛する心情を育てるようにする」とうたっている。通知表は校長の権限で作られ、学校ごとに異なるが、14校は事前に定めたひな型に沿って同一の表現にした。ある校長は「愛国心というより学習の意欲や態度を評価する項目だ。指導要領にも沿っており、問題はない」と説明する。
 だが、52校の中には削除を検討している学校もあり、校長たちの足並みはそろっていない。
 寄居町のある小学校の通知表の記載は「我が国の歴史に関心を持ち、それを意欲的に調べることを通して、歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を持とうとする」。
 これについて、昨年7月赴任した現校長は「前校長が作ったので経緯は分からないが、どういうことを『国を愛する心情』というのか判断が難しい。あいまいな部分は分かりやすく変える」と語り、現在作成中の06年度の通知表で「愛国心」を削除する考えだ。
 通知表の「愛国心」評価を巡っては、福岡市では02年度に市立小の約半数にあたる69校で実施したが、市民団体が反発し、03年度から削除された。
 国会では24日に福岡市の事例が取り上げられ、小泉首相は評価の必要性を強く否定。小坂憲次文部科学相も、野党側の「内心の自由を侵害する」との追及に「子どもの内心に立ち入って(愛国心があるかどうか)評価するものではない」と慎重な答弁を繰り返した。
 全国調査では、福岡市のほか、福井県内でも「愛国心」評価が一時期実施されていたことが分かった。他の都道府県は「把握していない」「調査していない」などと回答した。
 ▽大田尭・東京大名誉教授(教育学) 一番の問題は、学習指導要領が「国を愛する心情を育てる」ことを目標に挙げている点だ。愛国の情は個々人で違っていてもよく、評価するのは不自然。心情を画一評価することは内心の自由を侵すことになり、内面の画一化につながる恐れもある。教育基本法が改正されると、愛国への心情評価が合理化されるのではないか。
毎日新聞) - 5月26日3時9分更新


 これを受けて今日の教基法特別委員会では小坂・文科大臣は内心を直接評価しないよう伝達している、と答弁したけれど、こうなることはすでに分かっていたと思う。


 管理人個人の見解として、愛国心を持つことが「悪い」とは主張しない。ただし、教育現場でそれを評価しきれるモノなのだろうか?と思ってしまう。誰が、どんな基準で評価できるのかという問題だ。
 例えば、入学式や卒業式で君が代を歌う時に、きちんと歌えない児童・生徒は「愛国心に欠けている」とするのだろうか?
 案外君が代を歌うのは難しくて、「さざれー・いしのー」の箇所を間違って歌っている人間が多い。勝手に音符を付け足して歌っている。そういったヒトの方が余程不敬な感じがするのだけれどねぇ。
 それに、みんなが君が代を歌っているときに、一人ひとりがちゃんと歌っているかチェックする人間がいるとして、その人間に一番愛国心が足りてないのではないか?とも思えるのだけれど…。
 自分の心からわき起こる→歌う、という行為の中、そのヒト一人だけが歌うことに集中せずに他人が歌っているかチェックしているなんて、不敬以外の何ものでもないと思うのだが、どうもそうは思わない思考回路の持ち主が多いらしい。


 式典関係の時に、大きな声で君が代を歌えるヒトは普段、地域社会への繋がりや伝統文化に興味が無くても「立派な愛国心の持ち主」で、反対に君が代を歌うことを拒否するヒトは、万葉集源氏物語などの古典に親しみ、書道や茶道に造詣が深くても「愛国心に不足する不届き者」だとするのだろうか。
 愛国心の上滑りみたいな感じがしてしまう。中学で、「内申点」を上げるために先生「ウケ」を良くなるようにしていた生徒みたいにさ。
 でも、そのおかげでストレスが中に溜まるから仲間内での評判は悪かったりしていたような…。内申点の弊害みたいなコトを指摘する教育関係者がいるけれど、愛国心の評価も繰り返しになるのではないかなぁ。
 結果、上っ面だけの愛国心を持った「愛国者」が増えて、ストレスのはけ口に社会は荒廃なんてコトにならないのだろうか、心配だ。
 うーん、何を考えているのだか良く分からない…。


 もう少し根本的に「愛する」コトを考えてみればどうだろうか?家族や恋人etc.に対して人びとが持つ愛情表現ってみんな一様に同じか?と考えれば、「愛する」という行為を判断するのは難しい。
 端から見たら、それで付き合っているのか?と思う男女関係も、その当人同士はいたって真面目に愛し合っているのだろう。逆に、その愛情表現はどうなんだろうって考えてしまうようなヒトもいる。例えばサドとマゾの関係みたいにね。


 「愛する」という行為形態が様々でありうる、と言うことを考えれば「この愛情表現こそが正しい」という主張は一笑に付されるモノだと思うのだけれど、どうも一部の方々はそうは考えないらしく、困ったモノだと言う感じだ。
 そういう方々は、自分の愛し方「こそが正しい」と信じて疑わないのだろうか…。

愛国者は信用できるか (講談社現代新書)

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 現在は一水会顧問、かつては新右翼の旗手としてメディアへの露出も多い鈴木邦男さん。自称、「世界一の愛国者」が面白いこと書いているので、興味があれば…。
 最近は、鈴木邦男さんも「反日」とか言われるらしい。何だか凄い世の中…。