あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

事実が大事か価値が大事か


 このエントリ、元々ここに書くつもりじゃなかったんですがレス欄の関係上、こっちに書くことに。本来であれば黒ねこさん(http://blog.livedoor.jp/sweet_vanilla_666/)へのレスにしようと書いたんだけれどなぁ…。文字数オーバーだって。せっかくなので加筆してここに載せようと思ったわけです。


 何について書こうとしたかと言えば、レポートの課題になったシュンペーターのデモクラシー論をめぐる若干の考察。


シュンペーター(Joseph Alois Schumpeter)はもっぱら経済学との関係で語られることが多いし、実際僕自身としてもシュンペーターは経済学者だと思っている。多分、大多数のヒトがシュンペーターを経済学者として捉えるだろうし、それに異を唱えることはない。しかし、政治学の分野でシュンペーターを捉える場合、シュンペーターが経済学者であるがゆえに「経済学的な発想で」政治学が陥りがちな問題にスパッと解決の糸口を提供した点、この点を持ってシュンペーター政治学の発展に功績のあった「学者」として位置づけることが出来ると個人的には考える。。
 

 シュンペーターのデモクラシー論はまさに大衆社会におけるデモクラシーの問題と密接に関連している。
 市民社会大衆社会へと移行する中で、民主主義(Democracy)を字義通りに「Demos(大衆)」の「kratia(支配)」と理解するモノから、選挙制度に代表される「政治過程」のあり方を示す言葉に置き換えようと提唱したのがシュンペーターの功績だろう。
 なぜそれが功績になるかと言えば、元来、政治学においてデモクラシーというのは定義の段階においてすら十人十色であり、言ってしまえば定義の段階で議論が紛糾する問題であった。そうなると、当然統一的な定義なんか出るわけがないから、次の段階への議論が出来なくなる。それは政治学の発展のためには好ましくないわけだ。なので、デモクラシー論の発展のためにも哲学的な要素を抜き去った機械的に判断できる「最低限度」納得できる定義を作りましょう、という問題意識があった。


 機械的に納得の出来る定義、ということはどういうことか。
 極端に言ってしまえばシュンペーターにとって、民主政治というのは政治権力を持つ人間が正当に競争されてその権力を掌握できているか、という点が民主政治かどうかの判断の基準である。
 シュンペーター自身からは離れてしまうけれど例を挙げてみよう。
 人権としての参政権が身分や性別に関係なく、誰にも認められているかどうか。公平な選挙制度によって、政党が競争しながら政権の座を獲得できるかetc…。今では当たり前のように思えるような民主主義の条件を判断の基準に、そうした条件を機械的に当てはめていくことによって民主主義の状態にあるかどうかを判断する。これがシュンペーターの目指した定義というわけである。
 

 これがもっと進んでいくとダールを始めとするデモクラシー論にいっちゃうのです。(ダールのポリアーキー論はまたの機会に)
 大衆社会との関係性についてもっと詳しく言及してみよう。
 大衆社会とはそれまでの一部の富裕層(ブルジョワ)だけに選挙権があった市民社会と異なり、誰もが選挙権を持った社会のことを指す。(日本では議論は分かれるけれど1945年以降だとする)
 市民社会の時代では、富裕層というのは有閑階級だし、知識・教養溢れる個人であった。そういう人々の間では誰が政治家になっても、政治家になる資質があると考えられていた。しかし、大衆社会になって、誰もが政治家になれるようになると問題が生じる。社会の発展による、政治問題の複雑化に有権者たる大衆がどこまで正確な判断が出来るか疑問視されるようになるのである。
 (ここからは大事なのだが)もっとも、シュンペーターにおいては大衆は政治について正しい判断を示すことは出来ないけれど、真っ当な政治家を選ぶ能力は充分に備えている、と考えているようだ。
 しかし、そうなると大衆は選挙の時だけ民主主義を実践できるが、選挙が終わってしまえば政治家の決定に黙々と従うだけの存在になってしまう。実際の政治は専門家(=エリート)に任せて、大衆は政治権力に正統性を与えるだけの存在に過ぎないという考え方、つまり「エリート的デモクラシー論」である。しかしそれは果たして本来的な意味でのデモクラシーといえるのかどうか、という疑問が当然出てくる。
 一部の政治エリートに任せておけばそれでイイ、というのはやっぱり本来のデモクラシーの放棄だ、といった批判が政治思想・理論・哲学なんかをする側から起こってくる。
 とはいえ、現在の大衆社会化におけるデモクラシーのあり方を根本的に変えることは難しい。そこで少しでもデモクラシーをより徹底化する試みが提案されているのだ。
 「参加デモクラシー」や「ラディカルデモクラシー」はそうした「デモクラシー」の本来的な意味を取り戻すための理論的試みといえるだろう

デモクラシー (思考のフロンティア)

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この辺の錯綜とした議論を追い、デモクラシーの理解を深めるためにはオーソドックス。このシリーズの中でも良く書けています。また、筆者の千葉真はラディカルデモクラシーについての著書もあるけれど、そっちは未読。
資本主義・社会主義・民主主義

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市民の政治学―討議デモクラシーとは何か (岩波新書)

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ラディカルデモクラシーは体系的に論じるのが難しいと思う。個別事象を追うことで、最終的にラディカルデモクラシーがおぼろげながら見えてくる、といった類のモノではないだろうか。