あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

初々しいね。


 実はこのエントリを書くのは二度目。
 ホントはつらつら適当に流すつもりだったので、ワープロソフトに書かず、直接書き込んでいたらいきなりInternetexploreのヤツ、不具合を起こして全部パアになってしまった。
 非常に不愉快。こんどからくだらないことでもワープロソフトを使うとしましょう。


 ようやく本題(苦笑)。
 所用で大学の近くまで来たモノだから、後輩の夏休み中のサブゼミにちょこっと参加。
 秋の文化祭に向けて共同研究をするらしい。
 研究の内容としてはシティズンシップとか国民国家をやりたいということだ。でも、まだハッキリしてないからもっと詰めなくちゃ、とは言っていたけれど。
 僕も一昨年はこんな感じでみんなと勉強していたのか…と思うとなにやら感慨深い(笑い)。遊びも勉強も一生懸命というのが、結局のところ青春だと思うな。
 別に青くてもイイじゃないか、と個人的には思うので。それこそ前回の山田一雄の言葉じゃないけど精神的エロスは持ち続けられる、みたいなね。


 シティズンシップ、英語だとcitizenshipは「市民権」という言葉で訳せる言葉。けれど、どうも政治学関係の本や雑誌を読む限り市民権というニュアンスでは使ってない様な印象を受ける。市民権と言う言葉が元々存在する以上、あえてカタカナでシティズンシップという言葉を持ってくることはない、ということだ。
 なので僕の雑駁な印象から言うと、どうも「市民性」くらいに考えた方が良いんじゃないのかなぁ。他にcitizenshipは国籍や帰化といった意味で使われることもあるから、ゴチャゴチャしてしまうけれど、原義的にcitizen+shipで考えた方が良い気がする。
 とはいえハッキリとしない言葉だ。何だかあやふやで意味が通りにくい。にもかかわらず、最近「シティズンシップの政治学」のようなモノが出てきているのを見ると、EUに代表される「ヨーロッパ市民」的な国民国家に依拠しない自らのアイデンティティの拠り所にシティズンシップを持ってきたいのかなぁ…という推測を僕自身はしている。
 まぁ、21世紀になって、それまでの国民国家(Nation states)の枠組みからはみ出るようなアイデンティティの拠り所を求めようとする試み自体は評価できる。もっとも、僕自身は国民国家の枠組みを使いながら、いかにそのマイナス面を克服できるか、理論的枠組みを提示して貰えたらすごいと思うのだけれど…。これはちょっと難しいな。だって、ちょうど正反対の方向を志向しているもんなぁ…。


 もう遅いし、消えちゃってやる気も少ないのでこの辺で。