あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

言葉のタイミング

http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20060828k0000e010052000c.html

加藤氏実家放火:小泉首相が初コメント「許せない」

 以前のエントリでも採り上げたが、やっぱり加藤紘一事務所の火災は放火の可能性が高いらしく、庭で倒れていた右翼団体男性を逮捕した、というのは報道の通り。
 それを受けての小泉総理のコメントは、なんだかコメントが遅きに失した感は否めない。こういう極めて時局的な場面ではコメントのタイミングが求められるのではないだろうか。
 確かに「疑わしきは罰せず」であり、今までは逮捕以前の段階であったから迂闊に発言は出来なかった、と言う事情はあるだろう。しかし、イラク人質事件の際は憶測に基づく情報でコメントをしておきながら、こういう(恐らく放火であることは明らかであろう)状況の場合に2週間も沈黙をするというのは、自由な言論、あるいは民主政治にたいする深い理解が小泉総理や安倍長官にあるとは思えない。
 郵政解散の時でもそうだったけれど、小泉総理の発言というのは「改革勢力か抵抗勢力か」とか「郵政民営化、賛成か反対か」とか「(なぜ批判するのか)理解できない」と言ったように自分と意見を異にする立場の人達にも相応の思考や判断があるということを理解せずに一方的に「友」と「敵」に分別してしまう傾向にある。
 今回のことについてもそうだけれど、小泉総理と加藤紘一はかつて(YKKと呼ばれた)盟友でありながら、靖国問題をめぐっては意見を異にさせており、そうした関係が小泉総理に放火事件についての積極的言及を妨げている遠因になっているとは言えなくはないだろう。


 例えば東京新聞の8月25日の特集ではこのような自民党内の雰囲気を採り上げている。

加藤元幹事長実家放火 党内忘却モード 

http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060825/mng_____tokuho__000.shtml

 自民党総裁選挙も絡み、こうした状況にコメントしにくい状況だ、と言うのであれば、それは議会政治の自死にも等しい行為だろう。本来であれば、自由な言論を暴力で封じようとする風潮や行動には最大級の批判をしなければならない。反対の意見であってもそれを表明する自由は権利として与えられる、というのが近代以降、自由民主義体制の基本ではなかったのか。
 その自由民主義体制の基本を逸脱したからこそ日本やドイツ、イタリアではファシズムを、ソ連スターリンによる粛正を、中国では文化大革命を招いてしまったのではないか。小泉総理や安倍長官には自由と民主主義への理解と共に歴史に学ぶという姿勢が見られない。『美しい国へ』でかつての日本を回顧するのは結構だが、それ以上にこれらの歴史を回顧して貰わなければならない。


 放火の被害者である加藤紘一は次のような印象を語っている

事件から1週間が経って

http://www.katokoichi.org/index.html


今、我々が立っている社会の土台が、もしかしたら0.8度くらい、ちょっと下り坂へと傾き始めているのかもしれません。ほんの少しですから、誰も気づきませんが。戦前、日本社会は少し下り坂に向かっていました。それを誰も気づかないまま、精一杯対応しているうちに、だんだん加速していってしまった。スピードが出てしまえば、誰もそれを止められません。ひとつ方向にわーっと皆が動くから、それと逆のことを言う人間が自由にものを言えなくなる。自由な意見、活発な発信ができなくなった社会のなかで、過去の日本は大きな間違いを犯していったのです。

今の状態が、戦前と酷似しているというつもりはありません。しかし怖い、というよりは不健康な現象だと思います。自由を手に入れ、価値観が多様化し、選択肢も増え、競争社会になった、そんな“個人の時代”のなかで、拠るべきものがないからこそ、微風にでも流されてしまう。そんな風景が見えた気がしました。

 「0.8度くらいちょっと下り坂へと傾き始めている」というのは今回の事件から小泉首相のコメントまでの一連の流れを表す上で象徴的な言葉になりうると思う。少なくとも5年前では考えにくかったような事態であると言っても良い。管理人も同感で、少なくとも「上り坂」へとは向かってない。(だから敢えてこうしてエントリに採り上げるのだけれど)
 かつての日本やドイツの知識人たちは表現こそ違うけれど「気がついたら大変なことになっていた」と言うようなことを口々に言っていた。
 彼らには学ぶべき歴史が無かったが、我々はすでにそうした「歴史」が存在したことを知っている。だが果たして本当に「学んで」いるのか、その評価は後世の歴史家が下すに違いない。