東征記③唐津→伊万里を物見遊山!
初日からそうなんですが、泊まるところはずっと福岡でした。福岡を拠点に方々に観光している、といった具合です。それで思ったんですが、基本的に町歩きの好きな人は、繁華街まで歩いていける距離にあるホテルor地下鉄の駅が近い、といった方が楽しいです。
今回の場合で言えば、10分も歩けば中洲や天神に出られる、といった方が夜の食べ歩きも楽しいですしね。静かな雰囲気を味わいたいというヒトには向きませんが…。
さて、3日目。
この日は今まで見たことがなかった唐津・伊万里の方へ。雲仙や島原へは足を伸ばしたことがあっても唐津はなぜかスルーだったので、初の唐津です。
唐津城はこのフォトだと分かり難いかもしれませんが、海のそばに立っていてなかなか風光明媚な感じです。海と山と城がとても映える。
城内はどこもかしこもそうですけど、資料館になっていて唐津の様子が勉強できるようになってます。ところで、そこで興味深い記述を発見しました。というのもどうやら「唐津城に天守閣は存在しなかった」ということらしいのです。
唐津城の築城は江戸時代に入ってからで、それゆえに天守閣は必要ではなかった。従って、古地図にも唐津城に天守閣の記載が一切無い、ということでした。まあ、確かに理解できる話ではあります。というのも、僕らが「城」をイメージするとき、大体あの壮麗な建物=天守閣を想像するのですが、あの天守閣は主に戦がある時に活躍するモノで、普段の生活や政務は本丸にある御殿で行われるのが普通です。
なので、戦国時代からある城には天守閣はありますが、江戸時代に入って、その地方を統治するのに築かれた城には天守閣がない場合があるのは、あり得るということになります。
それが証拠に(という言い方は適当ではないかもしれませんが)江戸城も最初の50年くらいは天守閣は存在したものの、明暦の大火(1657年)で天守閣が焼失して以降、戦闘用としての天守閣の性格と幕府の財政難が相俟って天守閣は再建されませんでした。だからおよそ江戸時代270年間の間に天守閣が存在したのはたかだか50年余りということです。
閑話休題。
存在しなかったとはいえ、唐津城、なかなか城壁が海と青空との間で非常に映える建物ですね。毎度のことですがこの最上階の展望室から見た景色もまたきれいでした。
その後、昼食をとってから、伊万里へ。
焼き物の中でも伊万里焼は非常に有名ですね。「良い仕事してますねぇ」でお馴染みの中島誠之助なんかは伊万里焼にみせられたヒトですが、確かに伊万里焼の目の覚めるようなブルーの線は数ある日本の焼き物の中でも屈指のモノだと思います。
この伊万里焼がヨーロッパに伝わり、ドイツではマイセンのモデルとされるあたり、世界が一つになりつつあった時代を感じますね。
伊万里の中でも、鍋島藩の武士の間で使う「鍋島」を焼いていた焼き窯の跡を見学。今では公園となると共に、観光用にたくさんの窯元が密集しています。
観光用にいくつかある窯元の中には、絵付けをさせてくれるところもあったり、色々出来るのですが、管理人は絵心がないのでスルー。しかも、置いてある伊万里はどれも高価で気軽に買っていける値段ではありませんでした。なので、そのまま見学だけしてスルー。
↑焼き窯