あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

週刊新潮って。

 山口の高専殺害事件、結末はご存じの通り。
 容疑者の少年が自殺したので、名前や顔は周知になったけれど、仮にまだ自殺しなかったり遺体が発見されなかったら週刊新潮の記事だけが実名と顔写真を掲載しているはずだった。
 週刊新潮側は実名・顔写真掲載は犯人確保と犯人の自殺の予防に資する、というようなコメントをしているがハッキリ言ってエグいなぁ、と。
 今日のテレビ番組でも、掲載することが正義だ。みたいなニュアンスのことを言っていたが、新潮にそんな崇高な理想なんてあるわけが無くて、この出版社にあるのは他人のプライバシーを暴いて部数を稼げるのであれば何でもする拝金主義だろう。
 個人的に実名報道がいけない、とか、そーいう話ではなくて、新潮社があまり偉そうに「こちらの側に正義がある」みたいな態度でいるのをみると「へそで茶を沸かす」という形容詞がピッタリだ。
 週刊新潮の記事に対して毎年数件から10件近くの訴訟を起こされ、裁判所から「余りに多くの人権侵害を繰り返している」とまで言われている会社が社会正義みたいなことを口にして欲しくない。そんな姿勢だからナベツネにさえ「イエロージャーナリズムだ」なんて言われてしまうのだ。
 新潮の唱える正義の内容がいけない、というわけではない。そうではなくて単純に新潮には正義を唱える資格がない、だけの話である。権力があっても果敢に挑む、というよりは「池に落ちた犬を突き落とすような」記事ばかり。マスメディアは第二の権力、などといわれる。そうした力を持った以上、まず対象となることは何なのか、その権力によって抑圧される対象はいないのか、ということを充分考えなければいけない。
 加えて、正義を証明するなら日頃から犯罪被害者への過度な取材や、犯罪被害者への報道のあり方を問うシンポジウムでも紙面上の呼びかけでもやればいいのだ。
 そうした根本的なところが欠落していて、そのあたりは報道の自由を主張する。
 現行憲法の理想に否定的なくせにそこは大いにフリーライド(ただ乗り)しているのだから立派な姿勢だ。