あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

国旗・国歌強制違憲判決@本当に対立するものなのか?


 金曜日に全国紙各紙一面はこの話題。
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060921k0000e040101000c.html
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20060922/mng_____sya_____007.shtml

 内容は新聞で読めばいいのだけれど(とはいえ、新聞読まないヒト案外多いんですが…)要約すると次のようになる。

  1. 都立高校などの先生が都と都教委を相手に裁判をした。
  2. 理由は入学式や卒業式で国旗掲揚と国歌斉唱に従わない「思想・良心の自由」が当然認められるかの確認、従わないヒトを処分することの禁止を求めたもの。
  3. 判決は憲法第19条の「思想・良心の自由」は当然保証され(だから思想・良心から国歌斉唱に反対する自由は保障されている)、強制するような通達は教育基本法第10条に違反するという。


 多分、教育基本法なんか読んだことがないヒトばっかりだと思うので第10条(教育行政)を引用しておくと

1  教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
2  教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 と規定されている。
 今回の裁判ではこの「不当な支配に服することなく」というのがポイントになったようだ。
 つまり、国旗・国歌について言えばコアな賛成者と反対者がいるにもかかわらず、そのへんを充分考慮しないで一律に斉唱の強制&反対すれば処分を通達してしまうのは不当な支配にあたると考えられるのだろう。
 社会科学と疎遠なヒトにはちょっと分かり難いのだけれど、この判決での小泉総理のコメントは(本人の意図したところとは逆に)重要な指摘だと思う。

小泉首相は21日、入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代斉唱を強制したことを違憲とした判決について「法律以前の問題じゃないでしょうかね。人間として、国旗や国歌に敬意を表すというのは」と述べ、疑問を投げかけた。思想・良心の自由については「裁判でよく判断していただきたい」と述べるにとどめた。(毎日新聞より)

 敬意を表すという良心の問題であるから「法律以前の問題」である、と小泉総理は言った訳だが、これは実のところ判決を肯定することになる。
 つまり、「法律以前の」良心の問題だから、斉唱する・しないは同様に保証されねばならないのだ。斉唱する良心(思想)は認めるが、しない良心(思想)は認めないというのはそもそも立憲主義のイロハとして成り立たない。日本が立憲主義の国でないなら話は別だが、管理人は日本を良い国だと考える理由として、某国のようにある一つの思想(および価値観)が強制されないことにあると思う。


 更に付け加えるならば、読売や産経の社説のように、こうした判例が出されると公教育は成り立たない、ということもないだろう。国旗・国歌に反対することによって学校現場は混乱する、と考えているようだが、果たしてどうか。
 そもそも多くの人間が集まる「集団(あるいは社会)」で一定のルールをもって、その集団内での生活が円滑に営まれる、その性質を「公共性」と言えるのではないか。その集団を構成する一人ひとりは当然、感性も違えば考え方・価値観も違う存在である。そうした価値観の違う他者同士が「自分たちの価値観だけが正しいのだ」といって争わないようにするルールを作ること。そうしたルールが存在することで児童・生徒は公共性がどういうものなのか、ということを学べるはずである。
 だから、今回の判決(思想・良心の自由から国歌斉唱に反対する自由)と公教育の目的とが対立するなんて考える必要は全くない。国旗・国歌に反対する教職員がいたところで、公教育は成り立つし公共性は養われる。国旗・国歌に反対したからといってその教職員が自分たちの社会を・国を嫌っているということもない。むしろそうしたシンボルとしての国旗・国歌は反対でも国・社会は愛せる、という考え方がある方が公共性を通じた社会や国への関わり方を自ら考えるきっかけになるし、「国を愛する心」というのは多様であり得るし、多様であり得なければならないということが分かるだろう。