あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

安倍晋三と岸信介とをつなぐもの


 安倍内閣発足を機に尊敬しているという祖父・岸信介に関する本を読んでみた。書店に行くと何冊もあったのだけれど、一応この2冊。

巨魁―岸信介研究 (ちくま文庫)

巨魁―岸信介研究 (ちくま文庫)

岸信介―権勢の政治家 (岩波新書 新赤版 (368))

岸信介―権勢の政治家 (岩波新書 新赤版 (368))

 岸信介といえば「巨魁」とか「妖怪」なんて言われるので、そのイメージに引き摺られてしまうのだが果たしてホントのところはどうだったのか?という率直な興味があった。
 ただ、同居しているグランドマザーに話を聞くと、どうも「謙虚で地味な印象」だったらしい。なんか、管理人の持っていたイメージと結構ギャップがあったのでやや驚いてしまった。
 まず、結論から言えば読みものとして面白いのは岩川の「巨魁―岸信介研究」で真面目に考えるなら原の「岸信介―権勢の政治家」となるだろう。
 以下感想。
 岩川、原ともに幼少時代、青年時代、商工省の革新官僚と呼ばれた時代、巣鴨プリズンに収監された時期、そして政治家時代をきちんと抑えている。
 もっとも、原の著作は原自身が政治学者だと言うこともあるし、この著書を執筆するにあたって本人ならびに関係者へのインタビューを始め、日記にまで目を通すなど、非常に資料を収集している。それに学者としての倫理観からか、非常に客観的に記述しているので偏見なく岸に迫れると言えるだろう。


 さて、いずれの著書でも強調されるのが岸信介の頭の良さである。村始まって以来の秀才、いわゆる「目から鼻に抜ける」というのはこういう人物のことを指すのだろうと思わせる。(今でいうところの)小学校から東京帝国大学まで常に主席を突っ走るのが岸である。(東大で主席を分け合ったのが後の東京帝大教授で貴族院議員の吾妻栄)しかも岸の場合はガリ勉タイプではなかったらしく、頭の回転が恐ろしいほど速い人間だったようだ。
 また、岸は東大で(美濃部達吉天皇機関説を攻撃した)上杉慎吉やさらには北一輝の影響を受けて、のちの思想的バックボーンを形成する。ただし、これは指摘されているが岸の場合あまりの頭の良さに上杉慎吉(延長線上には平泉澄とがかいるのかな?)に完全に共鳴することはない。彼らの情念的なものは岸の明晰な頭脳から見れば非常に非合理・非論理的に見えるのだろう。
 そんなことで官僚になった岸は北一輝の影響をから国家主導の計画経済へとその手腕を発揮することになる。だから、といえおかしいが岸自身はマルクス主義に非常に反発するのだが官僚時代にやったこと、目指したことと言えば非常にマルクススターリン主義の計画経済に近いことをやっていたというのは何とも皮肉な話だ。
 (もっとも北一輝の思想にマルクススターリン主義的な国家主導による社会計画の志向があるので、図らずも、といった方が適当かもしれない)


 満州で(表裏併せて)辣腕をふるい、東条内閣での商工大臣になる岸にとって、戦後の体制というのは果たしてどのようなものだったのだろうか。この疑問に原は慎重にそうした評価や判断については触れていない。ここでは岩川の表現がその手がかりになりそうだ。

 衆参両院で岸新総理を責めたのは野党であった。かれらは、東条内閣の商工大臣として、政戦の詔勅に署名した過去の経緯をどのように思うか、と質問した。これに対して岸信介はすでに答弁を用意していたとみえて、少し声量をおとしながら、
「戦争中の行動については、厳粛に反省している。しかしいまは民主主義に徹した政治家として、日本の再建に努力している」
 と、こたえた。“厳粛に反省している。しかし今は民主主義に徹した政治家として”という表現は、いみじくも岸の性格と長所と短所をいいあらわしていた。
 民主主義の本質を体得した民主主義者としてではなく、民主主義に沿った、徹した政治家として処世をはじめたのである。事変が起きれば、またもや△△主義に徹した政治家としてよみがえるのか。官僚体質でもいおうか、ここには、軍国主義国家から民主主義国家にうつったときは、民主主義の表示を掲げて国家に忠誠を誓うという、役人の姿がある。あなた自身はどうなのだ、とたずねられたら、恐らく岸は、私自身は昔とちっとも変わってはおりません、と心中でつぶやいただろう。(p.139)

 あの戦争のどこがいけなかったのか、と尋ねれば「他国を侵略したことだ」というのが今日多くのヒトの答えだろう。ただ、岸の場合はおそらく「負けたことだ」と答えそうな気がする。もっとも憶測でこういうことを言ってはいけないのだけれど、岸にはそうした善悪というか倫理観が欠如しているように感じる。信念があってやる、というのはあまり感じない。そこにあるのは合理性。
 管理人が岸に違和感を感じるのはこの点だ。民主主義観がどうも根本から違う気がする。そして視線の方向が管理人とは永久に交わりそうもない印象だ。
 岸にとって、日米安保改定は敗戦で従属関係に陥った日米関係を台頭対等にするための一里塚であり、ゆえにゆくゆくは憲法改正をする必要があったのだとおもう。改憲のイメージについて語らなかったからどのような国家にしたいのかは分からずじまいであるが、民主主義の要素と明治憲法の要素を足して割ったようなものになるのではないかな、とも思えてしまう。
 上杉的な国家観にも違和感を感じていた岸だから憲法の内容というよりもその手続きに非常な不満があったのだろう。
 ただし、商工官僚→商工大臣という岸だからこそ、とでもいえるのだろうか、国民に現行憲法がどれだけ受け入れられていたか、という大衆の感覚は分からなかったのではないだろうか。つまり、岸自身が戦中期において辛酸を味わう、ということがなかったが為に戦後民主主義体制ならびに日本国憲法への大衆の共感が理解できなかった。だから、安保反対の大運動にまで発展することが予測できなかったのだ。
 アイゼンハワー大統領の来日中止に関しては原が岸の判断にしているのに対して、岩川がアメリカ側からの中止要請があったとしているのが興味深い。管理人としては岩川の解釈に従いたいと思う。


 両著ともにその後の岸も描いているが、この辺りが一番管理人には興味を持って読めた。多分に政治学を専攻しているからというのもあるのだと思うのだけどね。


 そこで安倍晋三のことをつらつら思ってみたりする。
 所信表明演説でこそ「戦後レジーム」という言葉を使わなかったようだが、安倍の戦後観も尊敬するだけあって岸と同じような「恵まれていた側」の雰囲気がする。確かに安保闘争の時に、岸邸は被害にあったようだが、基本的に安倍晋三もなぜ大衆が戦後の民主主義体制ならびに日本国憲法を守ろうとあれだけの運動を起こしたのか、という根本的な考察を欠いていると思う。
 ジョン・ダワーは確かに憲法マッカーサー憲法であるのは事実だが、憲法成立後60年にわたってその姿をとどめていたのは、国民の力によるものだ、という趣旨のことをいっている。保守政治家にとっての保守とはいったいいつの時代を「保守」するものだろうか。