あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

日番谷肉薄!!@ブリーチ24巻


 今日も学生らしい一日。
 午前中は大学の図書館で勉強して、午後からはゼミに参加。
 先々週も書いたと思うけど、今日もフェミニズム論についての報告にディスカッション。
 ネタ本が岡野八代の『シティズンシップの政治学』で、それゆえ、って言い方はおかしいのかもしれないが「フェミニズム・シティズンシップ論」についてだった。


 フェミニズム・シティズンシップって今回一連の勉強で初めてききましたよ。フェミニズムは以前エントリでも採り上げたとおりだし、シティズンシップも雑感で採り上げたんだけど、まさかそれが一緒にくっつくとは!といった次第。
 繰り返しになるけれど政治学の最近の文脈ではシティズンシップを「市民性」くらいに考えた方が考察が深まると思います。
 そこでフェミニズム・シティズンシップなんだけど、ただ、岡野八代はアレント研究もしていたことがあって、リベラルかコミュニタリアンか、といえばコミュニタリアンだろうと思う。従って岡野の主張するフェミニズム・シティズンシップの方向は土台にコミュニタリアニズム的な発想があるんじゃないだろうか?
 それが女性的なモノを排除しない、一種の特性論の要素も包含するといえるだろう。
 だけど、そーやって「リベラル」だとか「コミュニタリアン」だとかってカテゴライズすると本質を見失うかもよ、という指摘があった。うーん…確かに。
 ただ、思想を理解するときに、一定のラベリングをすることは必要なんじゃないかなぁ…と個人的には思っている。たしかに個々人の思想を詳細に検討する際にはそのような「ラベリング」(レッテル貼りと言っても良いが)するのはかえって有害だろう。でも、ベンサムやJ・S・ミルを理解するとき、功利主義とか急進主義といった文脈で考えた方が全体像を理解しやすい。全てを詳細に検討するのは理想だけれど、残念ながら管理人にはそれだけの時間も能力も欠いている。
 なので、確かにその指摘は認めつつも、岡野八代を取り巻く状況・コンテクスチャについて考えることはやっぱり必要なのでは?
 と、思想史をめぐる方法論についても若干考えてみた。

シティズンシップの政治学―国民・国家主義批判 フェミニズム的転回叢書

シティズンシップの政治学―国民・国家主義批判 フェミニズム的転回叢書


 帰宅後、近くの市民プールで今週も泳ぐ。最近、あまり正確に距離を測ってないけど、大体1.5キロくらいだろうな。


 で、学校の帰りに買ったBLEACH24巻を読む。

BLEACH 24 (ジャンプコミックス)

BLEACH 24 (ジャンプコミックス)


 表紙はグリムジョー。ちょっとへなちょこ系な名前だ。多分、「グリム」と「ジョー」の掛け合わせが悪いんだと思う。どーでも良いけど。


 今回も久保帯人はやってくれました。タイトルは「immanent god blues」だって。immanentなんて言葉知りませんよ。意味としては「内在的な」くらいの意味なんだという。へぇ〜、だ。だったら「内在的な神のブルース」になるのかな。意味分からん。もうちょっと意訳してみるか。どーなる? 「内なる神の哀歌」くらいにしたらイイ? どーでもいいが…。
 しかも今回はタイトルと本編の意味が噛み合ってない傾向が強い。いや、前からそうだったとかは言わないでね。
 それでもって日番谷の露出が徐々に多くなっていくわけですよ。これは腐女子じゃなかった婦女子のみなさんの狂喜乱舞が想像できますな。というか、ネタにされているだろうなぁ…とおもって読んでしまった。
 巻末に人気投票の結果が乗っているけれど、第一位は一護(知らない人のために一応、主役ね)だけど、それと49票差で2位ですよ。これは組織票だね、と勝手に推測。創価○会と○明党の関係みたいだ(笑)。
 なんだか、ヒカルの碁での伊角フィーバーを思い出すなぁ…。


 どーも最近、BLEACHに関して言えば慣性でマンガを買っている気がする。闘っているシーンってストーリー要らないから、ぶっちゃけて言えば今回「話」はほとんど進んでないんだよね。なんか薄めすぎたカルピスを飲んでいるような24巻だったなぁ。