あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

一見もっともらしく思える罠

まったく呆れかえる記事。

毎日新聞北朝鮮核実験:「日本の核保有も選択肢」中川政調会長
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061016k0000m010091000c.html

自民党中川昭一政調会長は15日、テレビ朝日の討論番組に出演し、北朝鮮の核実験問題をめぐる日本の核保有論について「(日本に)核があることで、攻められないようにするために、その選択肢として核(兵器の保有)ということも議論としてある。議論は大いにしないと(いけない)」と述べた。その上で「もちろん(政府の)非核三原則はあるが、憲法でも核保有は禁止していない」と強調した。
(以下略)

 やっぱり2世だからか、それともアル中(と言われる)ゆえか、どう考えてもまっとうな発言とは思えない中川昭一。(まぁ、政治家になったのは自殺した父・中川一郎の借金の関係で政治家にならざるを得なかったとも言われるが…)保守からも、また、リベラルからも日本核武装論は話にならないと言える。
 (日本の核武装は採るべき道でない、という論証は今回ひとまずおいて)ただし、こういう話をしても社会が許容するようになったことには注意が必要だと思う。
 以前も採り上げた本だけれど、ノエル・ノイマン沈黙の螺旋理論には次のような理論がある。
 それは「周知は正当化を意味する」というものだ。
 極端に言ってしまえば、情報を受ける側の大衆が「慣れ」てしまうということだ。
 極端な例を考えてみよう。
 テレビのバラエティーでも相手に向かって「お前死ねよ!」と罵ったりしないのは、それが視聴者に公の場では相手に向かって「死ね」とか言ってはイケナイ。という共通了解があるからだ。一種のタブーみたいなモノね。
 だけど、何かの拍子でバラエティーで「お前死ね!」ということが広がってくると、社会はだんだんとそのことに対する抵抗力が無くなってくる。そういう行為が社会的にしてはイケナイ、という意識が薄れてきて、「別に言っても良いんじゃないか」とだんだん慣れてきてしまうのだ。


 だから、周知は公然化へと意味してしまうのである。ドイツにおいてナチ党のシンボルであったハーケンクロイツ(カギ十字)は現在でも公の場で展示したり、不正に使用すると処罰される。
 それは、周知されることによって正当化されていくことに歯止めをかけるという一面を持つのである。
 確かにリベラリズムの伝統からすればタブーを設けず常に議論を重ねていくことは当然認められるのだけれど、ドイツでは過去にナチスという少数者による・極端な思想が急速に広がって、多大な惨劇をもたらしたという事実を反省して、民主主義の前提を脅かしかねない思想には強い姿勢で臨む。
 たとえば、得票数が5%を超えない政党には議席を配分しない条項があったりするのだ。
 こうした姿勢からドイツの民主主義は「闘う民主主義」と呼ばれるのである。
 日本国憲法はそうした「闘う民主主義」の要素は持たない。けれど、議論をはすべきだ、というもっともらしいことを謳って、日本国憲法の三大原則である平和主義と真っ向から相反する核武装論を政権政党政調会長が唱えるというコトの重大さを認識した方がイイだろう。
 憲法尊重義務があるはずの国会議員がこの程度の認識なのだから、この問題は深刻である。

沈黙の螺旋理論―世論形成過程の社会心理学

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