あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

改正する理由

 どーでも良いんだけど、疑問に思うヒトがいるので。
 履修不足問題、なんで「70時間」という数字が出てくるのか、といえば学校教育では35時間を1つの単位時間と考えている。
 1週間に1時間の授業を1年間やると35回できる、という計算で成り立っているのだ。
 逆に言えば、春・夏・冬休み&運動会&遠足&文化祭などなどの行事があって、実際に授業をするのは一年間のうちでも大体35週になる。

 なので、1単位は年35時間。2単位は年70時間。3単位は年105時間…となる。
 世界史は最低2単位必要なので70時間補習して下さい。というのが文科省の説明なのだろうな。。


 ところで教育基本法が改正される目算が高まったらしい。
(↓毎日新聞11月2日の記事より)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/wadai/archive/news/2006/11/20061102ddm005010080000c.html


教育基本法改正案採決間近 - 今日行く審議会@はてな
 kaikai00さんも指摘されているが、管理人も同じく教育基本法の改正が教育の再生につながるとは考えていない。むしろこの60年を通じて教育基本法の理念はどんどん形骸化してきたのではないか、と思うくらいだ。(これを正常化だと主張されるヒトもいるのだけどね)
 東京新聞教育基本法の改正理由について記事を書いている。 
(↓東京新聞10月26日の記事より)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20061026/mng_____kakushin000.shtml

(1)主権を制限されていた占領下に立法された法律で、日本人による自主的な見直しが必要とする「押しつけ論」
(2)現行法にはまぎらわしい表現があるという「規定不備論」
(3)一連の教育荒廃現象が生じるようになったのは、教育勅語にあった愛国心規範意識などが現行法に規定されていないから、とする「規範欠落論」
(4)「時代対応論」
(5)憲法改正を前提にした「原理的見直し論」

 国会の議論は5つに大別されるようだけど、管理人としてはこれらは教育基本法を改正する理由としては説得力を持たないと思う。
 教育の荒廃と言われるが、子どもを取り巻く環境が変化しているのに、テクニカルな部分での教育が追いついていないというのが原因ではないだろうか。
 (この話自体が与太話なんだけどさ)

 みんながテレビに釘付け、というような現象―巨人・大鵬・卵焼きでみんなが街頭テレビに黒山の人集りを作っていたようなそれこそ「Always3丁目の夕日」のような世界―はもう起こり得ない。人々が「明日への希望」という大文字の歴史を描くことが出来た、ある意味では幸福な時代ではなくなったのだ。

 それは社会心理学で言えばマズロー欲求段階説で説明がつくだろうし、イングルハートの脱物質主義的価値観からも説明が出来るだろう(ただし、一面からだけど)。
 だから社会環境が変化したのだから、学校も変わらなければならない。ただし、その「変わり方」に哲学がなければならない。その基礎付けに教育基本法がそもそも存在するのだろう。それが「基本法」として法の役割ではないのだろうか。
 だが、戦後の教育史はどうだったか?といえば、理想とすべき教育理念を実現するために制度を変革するではなくて、その時々で場当たり的に学校制度をいじってきたに過ぎない。
 例えば、これだけ少子化が叫ばれているのに、なぜ未だに公立学校は40人学級を維持しているのか?教室も空いているにもかかわらず、である。
 毎度の繰り返しになるのだけれど、文言を書き換えれば万事解決、なんてことはない。古今東西、改革が成功するのは問題意識に対して、人材を充て、時間を割き、必要な経費をきちんと保障することだ。
 現政権の教育改革の議論を追ってくと、どうも江戸時代の「倹約令」を思い出してしまう。松平定信水野忠邦らがいくら「倹約の精神」を唱えたところで事態は一向に好転しなかった。「保守」の方々は歴史が大変お好きのようだから、当然知っているのだと思うが、一体こういった事象から何を学んでいるのだろうか…。