あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

愛国心教育の難しさ〜国とはなんだろうか?

 教育基本法改正に関連して、続けてエントリ。

 NHKクローズアップ現代11月14日(火)放送の「“愛国心”って何ですか」を見ながら思ったこと。
 番組内では小学校で「国を愛する心」を涵養するための教員の試みを紹介していた。

そのなかで、練馬のある小学校では、次のような授業を展開していた。
 まず外国人の子どもが日本の子どもに「日本は四季がある」という話をする→その相手の子どもは「日本は四季がある国」とそこで認識する。と言う話。
 そこで、日本は四季があって、それが美しいと感じる外国人がいるんですよ、みたいな話になる。だから、日本は美しい国なんですよ、というような授業のまとめに至るわけだ。
 晩飯を食べながら見ていたのであまり真剣に見ていた訳でもないし、録画したわけでもないので結構うろ覚えなのだけれど、大体そんな感じだった。
 
 これを見ながらぼんやりと思ったのは、「国を愛する」と言うときの「国」とは何か?という根本的な問いにどう答えるのか?ということだ。
 英語では国を指す言葉としてnation、state、country、land、provinceなんかがある。
 それぞれ日本語で言えば「国」なのだけれど、その指し示す対象は相互に重なり合いながらも結構異なると言っていいだろう。

 nationは「民族」という意味もあるくらいだから、民族集団としての国という意味合いが強いし、stateは政府・行政機関としての国というイメージが強い。
 countryはその地域的なイメージ、コミュニティとしてのイメージが強い。landは土地、領土に近いイメージだろう。

 日本の場合、国を愛すると言った場合、英語で言えば分かれるはずの概念が全部ごちゃ混ぜになってしまい、結局、全ての国を愛するコトになる。(逆に言えば、そうして分割不可能なイメージが日本的だとも言えるのであるが、近代国家原理が西欧の所産であることを考えれば、「国」が指し示すモノに対する西欧的な見方は必要であろう)


 それがイイことなんだ!というひとであればそれは構わないと思う。ただし、管理人はそれによって生じる弊害があるのではないかと考えてしまうので、国を愛するという「国」とは何なんだ?と言うことを教える側(=つまりは教員)がもっと突き詰めて考えなくてはいけない。
 例えば、そうやって「四季のある美しい日本」と「日本国政府」は一体ではない。むしろ場合によっては対立する可能性もある。単純な例で言えば、政府による自然の破壊とかがそうだろう。
 また、帰属できる地域共同体(つまりcountryとしての国)が政府の推進するニュー・エコノミーによって解体させられることもあるだろう。この場合、countryとstateとはある種の対立関係にあるともいえる。
 更に言えば、アイヌの人々にとって(あるいは民族を文化形態で分割すれば沖縄のウチナンチュも含まれるだろうが)の自身の文化的アイデンティティ、土俗的アイデンティティ(北海道の多くの地名を考えれば分かる)を考えれば、統治形態としての国(つまりはstate)は同じでも、その他のnationとしての国などは、大多数を占める「大和民族」のそれとは同じではない。
 このようにしてみると、そこには単純に「国」というものが考えられないことが分かるだろう。
 管理人としては、むしろ、そうした「国」とはそもそもなんなのだ?ということを考えるコトの方が余程、愛国心の涵養に対して寄与することになると思う。
 しかしながら、これ程までに抽象度の高い問題は、小学校や中学校では適さないのも確かだろう。なにしろ、「大人」である教員でさえ(クローズアップ現代を見ている限り)、「あの程度の」認識しかしていなかったのだから、まして小学校や中学校で教えることはむしろ一面的な「国」の価値観しか育たない。(もっとも、そうした「一面的な国のありかた」を教育することが目的ならば別だけれど、そうした施策を採る国は、どことは言わないけれど38度線の北側にある国くらいなモノだろう。)
 つまるところ「反権力であればいい」なんてことはあり得ないのだけれど、国を愛するという行為を突き詰めていけば、そこには政府と対立することもあり得るし、文化と対立することもあり得るということだ。そのへんを考慮に入れないと、偏狭なナショナリストを生み出すだけだろう。それが後々厄介になるのは、(必ずしも同一視できないモノの)昨年の中国の暴動デモやドイツのネオナチなどを見れば了解できるはずだろう。