あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

改正された現実を見つつ出来ること@教育基本法改正案成立


 「教育の憲法」とも言われ1947年から教育(行政)の理念とされてきた教育基本法がおよそ50年ぶりに改正された。

↓は毎日新聞のソース 
【改正教育基本法:自公などの賛成多数で可決、成立】
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20061216k0000m010020000c.html

 なんかあっけなかったな、というのも正直な感想。


 管理人は教育基本法の改正に疑問を持っていたので、ここのエントリを使って紹介もしてきたんですが、やっぱり「国会の正式な手続き」を経て成立してしまったのも事実なので、その事実も尊重しなければいけないのだと思う。

 ただ、これは法哲学や民主主義論とも関係するのだけれど、極論すると「悪法も法なり」というソクラテス以来の命題にどう向き合うかと真剣に考える必要も出てくるだろう。

 つまり、公正な「選挙」で選ばれた議員によって成立した法律は、それが結果としてどんなに(やがて)国民に不利益をもたらすモノであっても、法律である以上はそれに従うべきなのかどうか、と言うことだ。


 「いや、民主主義が社会のルールなんだからそれに従うのが当然じゃないか」


 というのは単純で分かりやすいんだけど、この場合、そんなに簡単に答えが出る問題でもない。
 なぜ、政治を決めるルールとして民主主義が採用されているかと言えば、それは「人間は自由で平等な存在としてひとりひとりが価値を持つ」ということに由来する。中学で習った「基本的人権」っていうのはまさにこのこと。
 誰もが自由&平等なのだから、「政治を決定する権利」もまた「誰もが平等に持つこと」が望まれた。それが民主主義である。 

 だから民主主義が成立する根本には「基本的人権」がある、ということだ。
 民主的な過程で成立した法律でもそれが「基本的人権」を侵害するモノであれば当然、それは異議申し立ての対象になる。
 基本的人権を保障した憲法と照らし合わせてその法律が人権を侵害していないか、判断するのが裁判所の持つ「違憲立法審査権」だ。これも中学の公民でやった範囲。

 法律はあくまでも憲法の定める、もっと端的に言えば基本的人権の保障の上に成立するモノであって、その前提は否定できない。
 なので、教育基本法が改正されたからと言ってすぐに学校の教育が中国や北朝鮮のようになる、ということは無いだろう。


 ただし、だからといって楽観しても良くない。
 改正反対派は「改正してしまった」現実を受け止めて、これからどーするか考えなければならない。こうなってしまった現実の責任は反対派にも当然帰せられるからだ。(管理人も含まれるのだけれど)

 改正してしまった以上、ただちに「再改正」するというのも法律をあまりに軽視することにつながってしまうし、現実的に難しい。(ただし、今回の改正の審議過程で真正面から教育基本法が改正の必要を問う議論はあまりなされてない。従って正統性(legitimacy)があるかどうかは微妙。)

 だとすれば、とりうる選択肢としては「民主主義の民主化」以外にないように思われる。

 これは改正反対の運動よりもずっと根気がいるし、そもそも反対運動の継続というのは近代〜現代の日本政治史を概観すれば分かるように持続させるのは非常に困難である。

 しかし、この改正によって現場の教職員や児童、生徒に不利益がもたらされないように、教育行政に対する積極的なコミットを続けていくこと、もっといえば、教育の本来的なあり方である、学校を媒介として教職員・保護者・地域住民の協力関係のなかで教育を考えていく、「下からの教育」の観点が決定的に重要だろう。
 

 ともかく、事態は次の段階へと進んだわけだ。
 現実の正確な把握と、適切な対応が求められるのではないだろうか…。

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

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完訳 統治二論 (岩波文庫)

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第三の道―効率と公正の新たな同盟

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