あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

便りの無いのは

 元気な証拠、とはいうものの、やっぱり便りがあるのは嬉しいもの。

 歳の上下を問わず「友達」と括るのは人によっては抵抗感があるかもしれないけれど、管理人はわりかし平気です。
 とはいえ、先輩はやっぱり「先輩」として立てなくちゃいけないのかなぁ…とは思うんだけれど、自分自身が「先輩」として扱われるのはあまり好きじゃないので、できれば同い年のヤツらと接するのと同じように扱ってくれればいいのになぁ…と密かに思ったりする(笑い)。

 このところ、そーいった友達から便り―とはいえメールだけど―が届くから、それが結構嬉しいわけです。
 大体は進路に関することだったりするのだけどね。毎日会ってるワケじゃないのに一言添えて連絡してくれるなんて!!と思うわけですね。

 それと関連する内容だけど、出来たばかりのゼミ誌を早々に読んでみる。とはいっても今回は寄稿してないから自分の文章はナシ。もう、次代のゼミ生オンリーのゼミ誌。
 そこに書かれる文章を読むにつれて、誰もが卒業前にすると同じことを思うんだなぁ、と思う。
 それと同時に、自分は誰かにとっての良き友人であれるのだろうか…といった疑問が浮かんでもくる。

 卒業してからとりわけ強く思い返すようになったのは、一人でも平気なんだけど、やっぱりだれかいた方が面白いし、楽しいよね、ということ。
 当然の事ながら、誰もが「良き友が欲しい」と内心、願うことだとおもう。
 ただ、なかなかどうして「誰かにとっての良き友である“自分”」を想像するのは(自分にとっては)難しい。
 難しいけれど、やっぱりそこに収斂していっちゃうのかなぁ。聖書じゃないけど、与えて貰う前に、まず与えられることを。みたいな。
 でも、個人的に「与えられる」みたいなコトは自分では思い上がりな気がする。自分は大したこと無い人間だろうが!みたいなね。でもまぁ、そのへん、個人的に決めている思いがあるんだけれど、素面じゃ書きません(笑い)。

 もっぱら自分より年下ばかりになった彼ら(もちろん彼女ら、も含めて。なんかジェンダーだとか言われそうだね)にとって自分はどう写っていたのだろうか…。


 きっと卒業シーズンが近づくとまた同じような感慨を持つんだろうけどね。