あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

消費かそれとも…。


 昨夜、バイト仲間のうちへ集まって、カニ鍋会をした。
 というのも、バイト先で仕入れるカニ仕入れ値で購入できる、ということだったので、だったら食べてみようという運びになった。

 写真の通り、凄く太いタラバガニ。
 残念ながら冷凍だったんだけど、茹でたあとに冷凍保存するのではなくて、獲れたてをそのまま冷凍保存するので、旨味が全然逃げていなくて、カニ本来の旨味と甘みが良く出ていて美味しかった。

 当然の事ながら、そのまま長々と宴会(笑)


 帰宅後、ボードリヤールの訃報を知る。
 
■仏の哲学・社会学者、ジャン・ボードリヤール氏が死去(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070307i515.htm

 管理人は「ポストモダン」と呼ばれるフランスの現代思想は残念ながら守備範囲外なのだけれど、それでもボードリヤールが「消費」というものに焦点を当てて現代社会分析をしたということくらいは、薄ぼんやりとは知っている。

 (構造主義があったとはいえ)まだまだマルクス主義的な「生産」を中心に物事を考える風潮が強いなか、「消費」の持つ意味を分析するという先見性は凄いと思う。
 そしてそれは、日本における1980年代の消費社会の到来によって、指摘された問題点が見事に浮かび上がってきたと言えるだろう。

 消費社会になると、それまで「消費」という意味が似つかわしくなかった、精神的なモノ(現象も含めて)まで、つまりあらゆる領域が「消費社会」に吸収されてしまう。
 その結果、そのモノには存在した本来の意味とは違った、単なるファッションとしての消費の一部になってしまう。


 現代社会の特徴がその「消費」性にあるとすれば、僕らはその「消費」とは違う関係性を目指す試みは全て灰燼に帰してしまうのであろうか?

 まさに昨日の「そこらで売っているカニとは違うカニを食べる」という行為それ自体は、典型的な消費社会の行動だろう。
 しかし、そこに集い、生身の人間同士がたわいもない話をしながらも、様々なコトについて語らい、そして、その生身の人間関係を大切だと思うその行為自身は、消費からは切り離されたモノだと信じたいし、そうあって欲しい。

 なんて、思ってしまった。