あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

命令なんかしなくても

ところどころで取り上げられているけれど、思ってた以上に大きな問題だったようだ。

■「集団自決」軍関与を否定/08年度教科書検定沖縄タイムス2007年3月31日朝刊1面】
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200703311300_01.html
沖縄戦 ゆがむ実相【沖縄タイムス2007年3月31日朝刊朝刊27面】
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200703311300_02.html


 厳密さを追求すれば、この手の問題は「全部が全部そうだとはいえない」という結論に達するのではないか。
 そのあたりが自然科学と社会科学の難しいところで、だからといって社会科学は科学として成立し得ない、ということにはならないのだけれど。

 ただ、これが学問的研究の範疇を超えて、各党派によってこの手法が使われ出すと元々あった意味から大分離れてしまって、極端な場合、およそ反対の意味に行き着いてしまうこともあるだろう。
 この問題も「all or nothing」で、「全ての集団自決が旧日本軍による命令であった」というところの「全て」が否定されると、あたかも「集団自決は沖縄県民の自発的意志によっておこなわれた」みたいな議論になってしまうから厄介である。「それを望んでいるヤツらがいるんだ!」みたいな陰謀論もあるけど、さぁ、どーなんだろう。直接、そういう運動をしている人たちに訊いてみれば良いんだろうが…誰かやってくれないかな。

 この手の問題は、強制による住民の集団自決もあったし、そうでない集団自決も「また」存在した、程度のことに過ぎないとは思うのだけれどね。

 「命令」って言うのもどうなんだろうか。
  確かに「追いつめられたら投降しないで自決しなさい」って言われれば分かりやすいのだろうけれど、そう単純な話ばかりというわけではないだろう。けれど、「米軍に捕まれば強姦される」とか「戦車に轢き殺される」とかあるいは戦陣訓みたいに「生きて虜囚の辱めを受けず」なんて言われ続けていれば、「命令」という形態を採らなくても、成り行きによって自決するようになるのではないか。
 (まあ、そうした情報ないし教育が自決を目的にしていたかどうか、という問題があるけれど、そうすると目的−結果の因果関係に陥ってしまう)
 それは権力論の関係からすれば一種の「規律権力」とでもいうようなモノがそこに作用していた、とも採れる。

 そうした状況下において、軍人と一般住民という非対称な関係性のなか、手榴弾を渡されたなら、それは自決を暗示することになりはしないか。


 そこで結局、最初のところに戻ってくるのだけれど、それこそ個々の集団自決を詳細に検討すれば(その手段は無いんだけど)、そこにはそれぞれ個人の意思だったり、特定の状況というものが存在するのだろう。
 しかし、全体というものを俯瞰し取り上げるときに、そこに人間個人の意思を超越した大きな力が働いていたのかどうか、というのが、恐らくこれからのポイントになっていくはずである。

 まとまりがないけれどこのへんで。

監獄の誕生 ― 監視と処罰

監獄の誕生 ― 監視と処罰