あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

読んだら危険

国民投票法案が成立した。

 ちょっと自分の考えをまとめるためにも書いてみる。
 だから分かり難いところがあると思うけど、そこは許して。

 デモクラシー(Democracy)の訳語を民主主義と訳した昔の日本人は大したモンだ、と個人的に思っている。
 言葉の意味を厳密に考えればギリシャ語のDemo(大衆)によるkratia(支配)が語源となってdemocracyという言葉があるわけで、そう考えると「民主政」とでも訳した方が適当なのかもしれない。

 けれど、である。

 デモクラシーを論じるときに「完成形態としてのデモクラシーは存在するのか」という命題が政治学を専攻する管理人の中にはある。
 ベルンシュタイン(E.Berunstein)は「民主主義は手段と同時に目的である」と述べている(『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務』)。もちろんベルンシュタインにとってみれば民主主義を徹底化していく先に社会主義社会が到来する、ということを考えていたことは恐らく自明なのであるが、ここでいうところの「民主主義は手段と同時に目的である」という主張はデモクラシーというものを単なる「形態としてのデモクラシー」として考えず、「運動概念としてのデモクラシー」としてとらえる視座を与えてくれるように思える。

 運動概念としてのデモクラシーとは、自転車や飛行機にたとえるヒトが多いけれど、つまり民主主義に完成などあり得ず、常に「民主的であろうとする意志」の持続がデモクラシーをデモクラシーたらしめる要件なのである。
 つまり、デモクラシーが完成した!と満足して、さらに「民主的であろうとする」ことを止めてしまったとき、自転車は倒れ、飛行機は墜落してしまうように、デモクラシーはデモクラシーでなくなり、それは官僚政だったり、全体主義になったりするわけだ。 

 だから冒頭のデモクラシーを民主「政」ではなくて民主「主義」と訳したのはこの点から考えると「言い得て妙」だな、と思う。

 丸山眞男は『日本の思想』のなかで「権利の上に眠るもの」という一句をマクラにして、民主主義社会について論じ、『「であること」と「すること」』に、今まで述べてきたことを端的に表現している。
 丸山にあっては日本国憲法に書かれる「不断の努力」という言葉の意味をいかに解釈するか、ということを説明している。その近代民主主義社会の核心とも言えるのは、「民主的である」コトに決して満足することなく、絶えず「民主主義をする」コトが重要である、と述べているわけだ。


 それを引き合いに考えれば、国民投票法(案)というのはデモクラシーを考える上で、決して民主主義否定へのパンドラの箱ではなく、むしろそこに「デモクラシーを更にデモクラシーにする」契機が含まれていると言っていいだろう。


 もっとも相変わらず、発議から投票までの日数は少ないし、投票日は救命救急以外の全ての施設、サービス業でさえも休みにするとか、デモクラシーを深めるような考慮は一切なされていないのはこの観点に照らし合わせて考えればハッキリ言って欠陥以外の何物でもない。
 従って、早晩に選挙でもって、いまの国会内での勢力を改めて選び直し、もっとまともな国民投票法案に改正する必要があるだろう。

 あとは、正統性(legitimacy)の問題がある。

 最低投票率の話が話題になっているが、legitimacyの問題を考えれば、最低投票率などというのは全く問題外だ。問われるべきは「最低絶対得票率」の問題であり、結論から言えば「全有権者数の過半数の賛成」によってしか憲法改正は不可能である。
 それ以外のいかなる得票を持ってしても、改正される憲法のlegitimacyは確保されない。

 従って、盛り込むべきは最低投票率ではなくて「最低絶対得票率」だろう。


 NHKのニュースでおかしな世論調査をやっていた、と弟が言っていた。
 管理人が帰ってきた段階では既にニュースが終わっていたために何とも言えないところがあるが「集団的自衛権を認める憲法改正に賛成か」あるいは「解釈改憲集団的自衛権を認めることに賛成か」といった内容だという。

 これが本当だとしたらNHKは政府の広報機関か?といわざるを得ない。

 質問の仕方が恣意的すぎるだろう。これでは誘導尋問も甚だしい。

 まず問われるべきは、

 としたところで、きちんと答えられたヒトに

 と、質問し、反対のヒトに

 といった質問を立てなくては何の意味もなさない。

 ちなみに「個別的自衛権」と「集団的自衛権」についてちゃんと説明できるヒトはどれだけいるだろうか?
 今年から投票権のある、弟の場合、全く0点だった。
 
 こうした個人的な事例を一般化することはよくないけれど、そうした前提を踏まえた上で憲法改正についての議論をしないと、意味をなさない。それは憲法が「国民が政府の権限を規制する“縛り”であるもの」というコトとも関係する。
 
 mixiをするようなヒトは基本18歳以上だけだから、今回の国民投票法では「すべからく」投票できるようになるけど、9条改正の根本とも言えるこの概念について、自分の言葉でもって説明できなければハナシにならない。


 ついでながら、NEWS23筑紫哲也が初期の肺ガンであることを告白した。
 不謹慎なこと言って喜んでいるヤツらとかいるみたいだけど、思想の合う・合わないを問わず、ヒトが病気になっているのにそれを喜んでしまうのはヒトとしてどうかと思う。アタマがおかしいとしか言いようがない。
 八木秀次をはじめとする連中や安倍本人も含めて、その取り巻き連中とか、管理人とは思想が合わない。また、石原慎太郎なんか思想だけじゃなくて人間的にも嫌いだけど、それでも病気になればいい、とか不幸になってしまえ、とは決して思わない。そこは最低限人間としての守るべきマナーじゃないか。そのへんの節度を平気で踏み外して喜んでいるのは人間失格だと思う。
 考え方は違っても同じ人間だ、という発想がないヒトは、右左・どの集団に属していようが「人間としての最低限の合意」(一人ひとりが掛け替えのない存在であるという前提)に背く以上、どこにもいられない。もっと言えば、そこに「人間性」の最も重要な部分が欠けている、と言っても良いんじゃないだろうか?

 思想信条の自由があるから、行動に移さない限りどんなことを思っても許される、というのが「日本国憲法」に保障されている権利ではある。
 ただ、ここでも気をつけなくちゃいけないのは、本来保障されるこの「思想の自由」っていうのは国家権力によって特定の思想しか強要されることのない自由であって、構図としては個人vs国家の関係で捉えるべき問題だ。
 それが思想信条という部分を超えて、その人の生死に関わるような事柄に平気で言葉による攻撃を加えているヤツらって言うのは、どう考えたっておかしいと思うし、やってはいけない。

 今回結構過激ですがこれにて(苦笑)。