あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

ジョン・グレイ『グローバリズムという妄想』

グローバリズムという妄想

グローバリズムという妄想

False Dawn: The Delusions of Global Capitalism

False Dawn: The Delusions of Global Capitalism


著者のグレイは(1948-)も前回とりあげたストレンジ同様、LESの教授を務めている人物である。ただし、グレイの場合、専攻は西欧政治思想史。

 この「グローバリズムという妄想」というタイトルから、グローバリゼーションが起こってはいないんだ、という単純な結論に至ってはいけない。本書では強調されないが「グローバリズム」と「グローバリゼーション」は異なる意味内容を持つのである。いわば、世界の一体化としてのグローバリゼーションに対してグローバリズムというのは、一種のイデオロギーである。
 極端に言ってしまえば、本書はその一種のイデオロギーとなったグローバリズムアングロサクソンの政治思想であると論じたものであるといえるだろう。

 グレイによると、イデオロギーとしてのグローバリズムは歴史的起源を辿れば、ヴィクトリア時代のイギリスに萌芽があり、自律した個人観や自由な個人により自由な市場を必要としたという「特殊イギリス的な」状況で成立した特殊な経済思想(本書で言う「自由市場経済」)であるとする。
 そうした自由市場経済が第二次大戦後、バッケリズム(イギリス政治史における保守党と労働党による「合意の政治」)によって急速に福祉国家化されていく。いわゆる「ゆりかごから墓場まで」というキャッチフレーズのイギリス福祉国家がここに完成する。
 そうしたイギリス福祉国家がやがてイギリス経済の停滞をもたらす。その停滞からの脱却として首相に就任したマーガレット・サッチャーが復活させたのが、先に挙げた自由市場経済思想だったのである。

 つまりここでも、福祉国家からの脱却、という特殊イギリス的な事情のために自由市場経済思想が利用されたのである。

 ただ、この特殊イギリス的な自由市場経済は効率面から言えば非常に性能が高いために、他の種類の経済体制は打撃を受けるのである。その典型的な例がドイツにおける「社会市場経済」だという。
 社会コストも負担するドイツの社会市場経済は自由市場経済とくらべて生産性に劣るため、純粋に経済効率の観点からすると競争に負けてしまう。(ただし、それは市場経済における競争に限定した話である。それが問題なのは単なる経済分野における一形態に過ぎない自由市場経済が社会の他の領域にも進出しているとことが問題だとも言える)
 とはいえ、それぞれの国において、つまりその国の文化的要件などによって資本主義の形態は様々であり得る、というのがグレイの見解だ。もっともこうした見解を持つのは今から10年ほど前の世界状況であったからだともいえる。大陸型の資本主義システムを模索してきたフランスで、そして、日本型資本主義とよばれた日本においても近年は「自由市場経済」の影響が非常に強くなってきている。この点、現時点でグレイはどのように考えるか、非常に興味が持たれるところである。

 翻って本書の意図がどこにあるかと言えば、それは「唯一の正解」としてグローバリズムは存在しない、ということではないだろうか。グローバリズムが主張されるとき、それはその時々における最も覇権(ヘゲモニー)を握る国の社会経済思想が色濃く反映されるのであり、つまりそれは「特殊な思想の世界化」に過ぎない、ということだろう。
 グローバリズムとは言いながら実のところはアメリカニズムである。というような見方を提供しているとも言える。

 本書から、ことさら「反米」「反アングロサクソン市場経済」という読解をするべきではないが、グローバリズムを「盲信」してしまっているヒトには発想の転換を促すきっかけになりうる本だと思う。
オススメ度→★★★★☆