あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

保守本流と戦後政治

 宮沢喜一が他界したニュースを知る。
 他に重要なニュースはいくらでもあるのだけれど、政治学的に見た場合、一つの象徴的な意味を持つと思うので、考えてみる。

 1919年10月、東京生まれ。東京帝大法学部卒業後大蔵省(現財務省)に入省し、池田勇人蔵相(当時)の秘書官に起用され頭角を現した。一貫して保守リベラルの道を歩む一方、経済政策では積極財政路線を取り、高度経済成長の流れを作った。53年4月、衆院議員だった父裕氏の地元・広島から参院議員に初当選。67年に衆院旧広島3区にくら替えし当選12回。

 初入閣は62年、第2次池田再改造内閣経済企画庁長官。通産相、外相、官房長官、党総務会長などを歴任し86年9月、池田派に連なる「宏池会」を継承、故竹下登元首相、故安倍晋太郎元外相らとともにニューリーダーと呼ばれた。ただ竹下内閣時代の88年12月、リクルートコスモス未公開株取得に関する問題で副総理・蔵相を辞任した。

 91年に首相に就任、1年8カ月間政権を担当した。しかしバブル崩壊後の景気低迷で困難な政権運営を余儀なくされ、金丸信自民党副総裁の脱税事件に見舞われるなどスキャンダルにも悩まされた。結局、最大テーマだった政治改革の法案取りまとめに失敗。内閣不信任決議案が自民党内の造反で可決されると衆院解散に打って出たが、衆院選に敗北、退陣し、非自民の連立政権が誕生して「55年体制」の幕引き役となった。

 その後、97年7月に小渕内閣の蔵相として再入閣。不況下の経済運営を託されての就任に、昭和恐慌時、首相退任後に蔵相となった高橋是清と重ね「平成の是清」と言われた。03年10月、世代交代を迫る小泉純一郎前首相の要請で政界引退。テレビなどで言論活動を続けていたが昨年6月、出血性胃かいようのため都内の病院に入院、その後療養を続けていた。

毎日新聞毎日新聞 2007年6月28日 16時35分

 大蔵官僚からスタートして、その堪能な英語力を買われ、吉田茂随行し、サンフランシスコ平和条約の調印(1951)に立ち会ったという、まさに「呼吸する戦後政治史」みたいな人物。個人的な評伝は、各新聞を見ればいいので、それとは別で考えてみる。

 自民党には非常に大まかに二つの流れがあって「保守本流」と「保守傍流」がある。
 その「保守本流」にあって、吉田茂の系譜はまさに本流中の本流であった。
 その吉田茂によって方向付けられる、いわゆる「吉田ドクトリン」(ドクトリン…政治における基本原則)は次のような特徴がある。

  1. 日本国憲法体制を基本的に擁護。
  2. その日本国憲法の枠内で、国防をおこなう。つまり、軽武装
  3. 軽武装なので、軍事費がかからないから、その分、経済政策に予算を重点的に配分し、経済成長を重視。
  4. 日米安保体制を中心とした、安全保障体制。ただし、常にアメリカとアジア諸国とのバランスを配慮する。

 このように、基本的に日本国憲法の範囲内でいかに現実主義的政治を行うか、というのが吉田ドクトリンの真骨頂だったといえる。吉田茂のこの路線を引き継いだ代表的な人物はやはり池田勇人であり、そして宮沢喜一だったといえるだろう。

 自民党内における、この保守本流の流れが「55年体制」における日本の高度経済成長を支えたと言ってよい。軽武装、対米協調といった方向性は自民党内における「保守傍流」からは独立を志向しない軟弱な姿勢であると批判され、かつての社会党などからは憲法の枠内と言いながら自衛隊を保持することを批判されたが、しかし、「軽武装、経済重視」という姿勢が今日の日本の経済的繁栄を築いてきたということは十分に評価すべき事ではないだろうか。
 思うに、保守本流の政治思想は戦前から続く、「オールド・リベラリスト」の思想系譜であり、また多くの官僚出身者からなる吉田の系譜は「穏健保守によるリアリズム」の思想であったと言える。
 オールド・リベラルの観点から、明治憲法下の日本が突き進んだアジア太平洋戦争の結果と、そうした経緯を経て成立した日本国憲法への評価が存在したのであろう。彼らにあっては日本国憲法成立までの経緯という事実が存在し、その経緯を無視するかのような憲法改正の議論はやはり慎重であったのだと思われる。
 また、官僚出身という合理的・現実主義的な観点からは、そうしたなぜ日本がそのような戦争を起こしたのかへの合理的考察とあたらしく制定された日本国憲法下でどのように国益を最大化させていくかという極めてリアリスティックな認識があったのだと思う。
 つまり国内需要の不足が戦争の一因だとすれば、戦後は国内需要を喚起すれば良く、そのためには経済重視(やがては所得倍増政策となって推進される)を、また、憲法9条によって軍事力の保持に制限がかかっているとすれば、軍事費に割くだけの予算を経済復興に充て、経済成長を図ろうとするのは当然の帰結であったように思われる。

 このような「保守本流」とパラレルにあった55年体制は東西冷戦という国際政治のパラダイムにおいて非常に有効に作用したと言える。しかし、ある程度の経済成長が達成されると、マクロ経済政策における積極財政は有効性を失い、また冷戦の崩壊後は、対米協調と軽武装では対応できないような状況が生じてきた。
 そうした宮沢の他界は、そうした「保守本流」の時代の一つの終焉を象徴的に表していると思われる。
 確かに、加藤紘一谷垣禎一などがその後を継いではいるものの、その影響力は小さく、現在では小泉純一郎安倍晋三といった「保守傍流」が自民党内で非常に力を持っている。

 しかし、小泉、安倍的な路線が今後も続くことで国内外に生じる軋轢は高まることがあっても、静まることはないだろう。過去において岸信介が招いた国内対立は次に総理になった池田勇人によって収束された。だとすいれば、「保守本流」的な方向は現在ないし今後の保守政治に対しても依然として指針を持つ理念であると思う。

自民党と戦後―政権党の50年

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戦後政治史 新版 (岩波新書)

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