あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

失言をめぐる社会状況@高村薫「政治の言葉の習い性」考

7月18日付けの東京新聞夕刊で作家の高村薫が以下のような論考を書いていた。
参考になると思うので、概要を引用してみる。

「政治の言葉の習い性」


 メディアと情報機器の発達がつくりだすのは、言葉の過剰と過小の両方である。一人の人間が受け取るには多すぎる情報が日々発信され、少しでも多く受け取るためにここの情報量が少なくなるという循環は、いまや私たちの脳をそのように順応させ、言葉の使い方や受け取り方を変えつつある。そしてそのことが、さらに言葉の機能や役割も変えてゆく時代に私たちは生きている。
 例えば、近年の政治家たちはなぜ、こんなに頻繁に失言を繰り返すのだろうか。政治家とはいえ人間だから、たまには気がゆるむこともあろう。しかし、同一人物が失言を繰り返し、同一内閣の複数の閣僚が相次いで失言を繰り返すとなると、もはや政治の質の低下や個人の資質以前の、言葉の環境そのものの変化を感じる。
 (中略)
 詐欺師は本来、雄弁に人を騙して信じさせるが、テレビの前の私たち一般人をして怪しいと思わせるような言葉の弱さは、いまや詐欺師も例外ではない。そして、もちろん言葉は受け手があって成立することを考えると、政治家の失言も元長官(管理人注、元公安調査長官)の妄言も、本人に資質以上に、この時代の社会を動かしている言語感覚の問題と捉えるべきではないかと思う。
 (中略)
 かくして、いまや政治は言葉の意味に出はなく、言葉がいかに国民の感情を刺激するか、にある。政治家たちは日々過剰に言葉を吐き、情緒に訴えるワンフレーズを繰り返す。目指すは論理や中身ではなく、好印象と親しみやすさ。それが習い性になった延長で失言が出る。


 しかし、今日的な言葉の環境では、「失言」や「不適切な発言」は、これまた受け手の直感や情緒次第であり、適切と不適切を分けるのは多くの場合、漠とした社会通念にすぎない。とすれば、たとえば原爆を「しょうがない」と語った政治家などは、己が発言に責任をもつのであれば、反論を試みるべきだろう。それをしないのは、発言が確信犯の信念ではなく、熟慮もなく出たものであることを明らかにしているに等しい。そしてもちろん、その熟慮の無さや軽さは、受け手の私たちがそういう受け手だということを明かしているのである。
 (中略)
 こんにちは、こうして言葉がある場所と時間を埋めるだけに浪費される時代である。言葉が意味や論理でなく、熱や匂いを伝えるだけの空気に近づいている、とも言える。折しも参院選である。山のような言葉が、ただひたすら私たちの心情をかき立てるべく繰り出されているが、政治の言葉でかき立てられる心情など、私たちの生活の微々たる部分である。その場の心情に訴えるだけの使い捨ての言葉は、いずれ私たちの心情によって同じく使い捨てられる。

本来であればこの倍ほどの文章なのだけれど、差し当たってこれくらいを抜粋してみた。
 こうした視点は高村薫が作家ならでは、とも言えるだろう。これに対して管理人は必ずしも完全に同意するわけではないが、しかし、そこで述べられていることは非常に重要な示唆を含んでいる。
 内山融の『小泉政権』(中公新書)によれば、小泉は「ロゴス(論理)」ではなく「パトス(情念)」の政治家であったという。これは管理人の非常に独断的な見方であるけれども、小泉がもたらした政治の「劇場化」はそれまでの「永田町政治」的な論理を粉砕したと同時に、政治的領域へパトスの過剰な進出を招いたのではないか、という気がする。
 大衆社会にあって惹起される政治的無関心(Political apathy)の原因の一つとして「政治の複雑性」を挙げることができる。つまり、現代社会は高度に専門化・複雑化していて、それぞれの政治的問題はそれぞれの専門家(あるいは官僚など)でなければ容易に実態を掴めなくなっている。たとえば、一時期騒がれたBSE問題は私たちの生活に直接関わる問題にも関わらず、その判断基準は全く専門化に依拠せざるを得なかった。
 しかし、それぞれの専門家にしても、彼らはその専門分野にしか通じていないわけで、全体を見通せているわけではない。BSEそれ自体は動物学者の分野かもしれないが、それをめぐるアメリカ政府との交渉は通商上の問題もあるので当然別の人物が担当する。
 そうした複雑化した政治・社会の様々な問題に対して小泉は「ロゴス」を駆使して国民に理解を求めようとしたのではなく、「パトス」で、直接、大衆の心情に訴えかけたのである。曰く、「自民党をぶっ壊す」、「改革なくして成長なし」、「郵政民営化、是か非か」といった「ワンフレーズ・ポリティックス」とよばれるスローガンの連呼は典型だろう。
 ここには議論を尽くしてその問題点を理解する、といった政治的理性(良心と言っても良いのだけれど)は感じられない。判断基準として用いられるのは「快・不快」であり、単純な「善・悪」の二項対立である。しかも、そうした政治的理性をどこかにおいて「政治を単純化する」ことが小泉内閣時代には常態化させたために、今日の政治をめぐる言動は高村薫が言うように「言葉」があたかも「熱や匂いを伝えるだけの空気に近づいている」ようになってしまった、といえるのではないか。

 しかも高村の鋭いところはそうした状況を生み出したのが他でもない、「受け手の私たち」だということだ。
 政治学では「その国民の能力に応じた政府しか、その国民は持つことはできない」と皮肉混じりにも言われたりする。まさにこの言葉と高村の指摘は今日の政治状況を言い表しているとも言えなくはない。
 高村薫は最後に「使い捨ての言葉は、いずれ私たちの心情によって同じく使い捨てられる」と述べている。
 ただ、「周知は公然化を意味する」というノイマンのテーゼ(ノエル・ノイマン沈黙の螺旋理論』)からすれば、それが果たして本当に「使い捨てられる」のかは気がかりなところだ。そうした妄言や失言を放置することで戦後日本の政治社会において徐々に積み重ねられた、(戦前との対比という意味での)政治の理性化の営みを壊すことになる。かりに、小泉の登場によってそうしたパトス化が進行している、と考えても、それとは反対のロゴスによる政治を―つまり、きちんと「おかしいことにはおかしい」という感覚を持つことは真っ当だし、また、そうしたパトスによらない政治を少しずつでも取り戻そうとする営みは必要ではないだろうか。

小泉政権―「パトスの首相」は何を変えたのか (中公新書)

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沈黙の螺旋理論―世論形成過程の社会心理学

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