あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

朝青龍と安倍内閣

 本来は「夏のおもひで第二弾@京都篇」のつもりだったのに急遽エントリ。(とはいえmixiの日記の増補改訂版なんだけど)
 水曜日にはご丁寧にメールくれるヒトもいたりで、情報が早いなぁ…と思ったりする。
 辞任報道が13時くらいで、夕方の講義の時間帯には学生がほとんど知っていたんだから、web2.0はスゲーなぁ…。(ちょっと違うか?)


 ご存じのとーり、安倍総理辞職である。
 さて、ここで野党議員だけでなく、総理を支える自民党公明党の与党議員からも「無責任」といわれる理由をメディアに従って整理してみると、

  1. 所信表明演説のあとである。
  2. アメリカのブッシュ大統領に「テロ特措法の成立(延長なんだけど)」を堅く約束してしまっている。
  3. この前の参議院選挙の結果を受けた上で、「行動で信頼を回復する」とアピールした。

 1は簡単。「臨時国会」を招集し、この国会での意気込み・抱負、方針を月曜に議会で演説した。なのに、本格的な質疑応答が始まる段階で主催者が突如「もう辞めた」と言い出した。始まった国会は「閉会」できないので「開店休業」状態が続くことになる。解決しなければならない問題は多いのに、最高責任者が不在だと、議会での議論は成立しない。よって、国政は停滞する。

 2は日本という国家が国際的に信用されるかどうか、という問題。
 約束できないのに約束しちゃったの?という話になってしまうのだ。そーすると、世界から「日本の政治指導者の約束は当てにならない」というイメージが広がると、国際社会での発言力は弱くなる。(ちなみにインド洋での軽油補給が憲法違反であるとかは、議論が複雑になるので、ひとまず置いておいて)
 どんなに立派なことを言っても国際社会は今後「どーせ守れないんでしょ?」って視線で日本のことを見るだろう。

 3は1と関連している。
 「年金問題安倍内閣で解決させる」と国民と約束したにも関わらず、「放り投げた」ワケである。相変わらず支払い記録がハッキリしないケースが大量にあるのに、それに対応したシステムが完成しているとは言えない。国民との信頼関係という点でも結果としてウソをつくことで破壊してしまった。


 こんな理由から、総理大臣・政治家として「無責任」ということになる。

 もちろん、これが一般人なら「お疲れ様でした。体調も悪いのに大変でしたね」と言われるんだけど、残念ながら、1億2000万人いる日本国の政治における最高責任者だし、世界第2位の経済大国の政治における最高責任者だから、「地位相応の責任」は果たさなければいけなかった、ということだ。
 参議院選挙の大敗の時点で総辞職か、あるいは体調不良であるならば、せめて臨時国会を開く前に総辞職か、はたまた(今後予想される)テロ特措法不成立の場合に責任をとって総辞職、というパターンが辞職のタイミングとして考えられたれど、そのいずれでもない、最悪のタイミングだった。という話にもなる。
 また、これで安倍晋三待望論が今後出ることは全くなくなったと思う。政治改革を掲げながらも頓挫した海部俊樹森内閣倒閣を目指して失敗した加藤紘一など、「肝心なところで勝負をかけられない」政治家には人材が集まらない。やはり政治―とりわけ政界―は権力ゲームの側面があるから、そういうときに腰砕けになるような気概では「総理大臣」は務まらないだろう。
 ただ、今回の安倍辞任劇はそうした過去の事例を考えても異常であり、下手すると総理大臣としての評価だけでなく「政治家・安倍晋三」の評価を大きく下げる気がする。非主流派がいるとはいえ自民党議員からの批判は厳しいし、なにより塩川正十郎安倍晋三をサポートする人間からも厳しい言葉が出ている。
 まー、個人的には細川護煕みたいに陶芸家とか、芸術の世界に隠遁するが一番だと思うんだけどさ。


 以上が微視的にみた場合の、いわば狭い範囲での安倍辞任劇の整理だったわけであるが、思想史的なパラダイムで俯瞰した場合、何が言えるのだろうか。
 管理人は個人的に、小泉政権以降の新自由主義的政策に対する「揺り戻し」が徐々に生まれてきたのではないかと思う。そして、そうした社会風潮はアメリカ社会とある程度パラレルになっているのだ。
 共和党ブッシュ政権が推進した一連の新保守主義的政策は9.11同時多発テロもあり、アメリカ社会を席捲した感がある。それと同じ頃、日本国内では平成不況下での行き詰まりから「改革」を期待する雰囲気があった。
 そこに誕生した小泉政権は日本型システムの「構造改革」を主張し、日本社会は大いに湧いたわけだが、その方向性はブッシュ政権とほぼ同じであったわけである。小泉内閣における経済政策のブレーンである竹中平蔵にして、F・ハイエク→M・フリードマンの流れを汲むのだから当然といえば当然であるだろう。ただし、小泉自身は新自由主義的であっても、政治領域に関して言えば特に定見を持っていなかったように思える。その点が小泉を政治的新保守主義者に位置付けできない理由であろう。
 小泉政権の後を受けて成立した安倍内閣は日本型経済システムに対しての構造改革の志向性を持ってはいたが、それ以上に戦後日本型政治システムに対する構造改革の志向性を強く持っていたように思う。それが昨年の所信表明演説で「美しい国」や「戦後レジームからの脱却」という言葉で表現し、具体的には教育基本法改定やジェンダー教育の見直し、道徳教育の充実や憲法改正のための国民投票法案の成立などが挙げられる。
 このようにしてみると、新自由主義として説明のつく小泉政権に対して安倍政権は新保守主義的な性格の極めて強い政権であったといえるだろう。


 小泉政権の「遺産」を上手く使うことで当初の安倍政権は先に挙げた目標を次々に達成していったのだが(むろん、リベラル派や左派にしてみれば脅威に映ったに違いない)、対外的にはアメリカのイラク政策の行き詰まり→米・民主党の勝利や国内的にはワーキングプアネットカフェ難民、農村経済疲弊といった格差問題がクローズアップされてきた。
 これらは新自由主義的(アメリカにおいては新保守主義的)政策の、ある程度やむを得ない当然の帰結であった。これらの政策はトリクルダウン(trickle down)を目指すものであり、極端に言ってしまえば「強者のおこぼれにあずかる」のだが、世論はこれらのことに対して徐々に不満を漏らすようになったのである。(「小泉劇場からの目覚め」というのはこの文脈で捉えられる)
 そうした2001年以降の新自由主義新保守主義的な政策に対するアンチないしブレーキが2007年参議院選挙だったと考えられる。(2008年アメリカ大統領選挙民主党ヒラリー・クリントン上院議員が最有力というのも、「政治思想」の観点から見れば新保守主義からの「揺り戻し」であろう)


 それにしても松岡(元・農水大臣)→久間(元・防衛大臣)→赤城(元・農水大臣)とマスコミはネタを捜しては大々的に扱ってきて、ネタに困ると、今度は朝青龍ばっかり取り上げる。
 たくさん事件があっても、一日まるで平和でも、「一日のニュースの時間は同じ」だから、マスメディアは「ニュース探し」をするわけである。
 ただ、マスメディアは「視聴率が獲れる素材」を捜しているわけだから、元をただせば僕ら国民が「ワイドショー的な」事件を求めていることにもなる。

 さて、今日のニュースから教訓を得るとすれば、「政治は人気取りではない」ということだろうな。

 感性ではなくて、理性。
 政治に理性を取り戻すことが今、第一に求められるんだと思う。

小泉政権―「パトスの首相」は何を変えたのか (中公新書)

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アメリカの保守とリベラル (講談社学術文庫)

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新自由主義―その歴史的展開と現在

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