あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

第648回定期演奏会 Aシリーズ

会場:東京文化会館
指揮:小泉和裕
ピアノ:ゲルハルト・オピッツ
ブラームス:ピアノ協奏曲第1番ニ短調op.15
ストラヴィンスキーバレエ音楽春の祭典

 2週間前に聴いたコンサートの感想。っていうか原稿書いたままupを忘れてたわけで…。


 今秋はじめてののコンサート。もちろん定期会員な都響を聴きました。

 今回の「聴きモノ」はプログラム的にはハルサイ(春の祭典)もそうなんですが、ソリストに迎えたオピッツのピアノが最大の聴き所です。
 オピッツは世界的に有名な現役ピアニスト。かのヴィルヘルム・ケンプの弟子にあたります。ケンプのピアニズムの真骨頂は「足」にあったとも言われるように、それぞれのホール特有の響きに細心の注意を払い、その響きに応じてペダルの踏み方を細やかに変化させたと言われています。
 オピッツはその弟子だけあって、今回そのピアニズムを堪能できました。フツーならもっとチケット代するだろうに、都響の定期会員だと非常に安価。学生割引なので1900円で聴けるというお買い得さ(いつまで学割使ってるんだと言われそうですが)。
 ブラームスのピアノ協奏曲がこんなに見事に演奏されたのは未だかつて無いくらい。もちろん、管理人の中では朝比奈隆伊藤恵による同曲のライヴも聴いているんですが、悪く言えば伊藤の平板としたピアニズムに対して、オピッツのそれは非常に立体的かつ機能的でした。
 一音一音に非常に考え抜かれ、ホントに立体的にピアノが聞こえてくるわけです。しかも決して無機的にならない演奏はやっぱりケンプに近い。もちろんケンプの場合はCDでしか聴いたこと無いんですが点。
 ただ、このタイプの演奏家は恐らく実演で真価を発揮するタイプですね。ベートーヴェンのピアノ協奏曲のCDではサッパリ感心しなかったんですが、それはやっぱり、それぞれのホールの響きによって「響かせ方」を変幻させる演奏家は録音に不向きなんだろうと思います。実演ではそのマイナス面が一切無く、ホントに「聴けて良かった」と思うピアノでした。
 

 後半の「春の祭典」は20世紀音楽の代表作。
 クラシックに興味の無いヒトでも聴いてみる価値ありな曲です。たしかにここまで「突っ走る」とロックに影響を与えるのは分かります。
 それでもってこの曲は編成が巨大なことでも有名で、東京文化会館の舞台にオーケストラメンバーが(ほぼ?)フルキャストで出てくる。見た目も壮麗。そのフルオーケストラによる音の塊はホントに原始的なエネルギー放出させる音楽です。この曲を「均して」演奏すると得てしてつまらなくなるのですが、小泉は奇を衒わずに正攻法で演奏していました。したがって非常にバランスの良い内容に仕上がっています。


 そんなわけで、非常に充実していたコンサートだったわけですが、気になるのは次期プリンシパル・コンダクターになるというインバルについて。
 プリンシパル・コンダクターって、日本語だと何になるんですかね?Googleなんかで向こうでは何に当たるか検索をかけるとPrincipal conductorは首席指揮者くらいなんでしょうか?ってことは音楽監督と違って人事権とかプログラム編成権(っていうのか?)はないのかな。
 ただ、それ以上に気になるのが年2回しか来ないらしい。だったら客演指揮者にしときなよ。なんか常任なり音楽監督なりの下で都響をどのようなオケにしていきたいか、という視点が感じられないな。なんか地方の美術館に一点だけ有名どころな絵が飾って、あとは何のコンセプトもありません、みたいなのに近い気がする。どこも公共施設ってこうなってしまうんだろうか?理事のヒトたちに都響をどのようなオケであるべきか、という理想像が今ひとつ伝わってこない。何考えてるんだか。
 世界の一流どころを招いて、結構な値段のチケット代で名曲どころばかりを演奏するっていう手もあるだろうが、それはNHK資本の入っているN響アシュケナージ)や大賀理事長の下で財界からの支援も厚い東京フィル(チョン・ミュンフン)に任せておけばいいだろう。東京「都」交響楽団として、つまり公共財として市民にどのように開かれ、どのような活動をしていくことが望まれるのか、という理念があまり感じられない(デプリースト体制は多少は伝わっていた)。それが取りも直さず都響の個性に繋がり、その独自の価値を高めると思うのだが…。

 はてさて…。