あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

責任果たせよ

中教審>中間まとめ了承 ゆとり転換、理数強化
10月30日17時56分配信 毎日新聞

 文部科学相の諮問機関・中央教育審議会教育課程部会は30日、小中学校の主要教科と体育の授業時間数を約1割増やすことを盛り込んだ次期学習指導要領改定への「審議のまとめ」(中間まとめ)を大筋で了承した。中学校は選択教科を大幅に削減したことから、理科や英語の時間数が現行よりも3割以上増加。理科は89年度の指導要領改定時の時間数を上回り、「ゆとり教育」を旗印に掲げる現行指導要領以前の水準になった。
 同部会は、これまでの審議をもとに教科ごとの具体的な標準授業時間を初めて提示した。来月7日に正式決定した後、市民からの意見募集などを行い、年明けにも渡海紀三朗文科相に答申する。文科省は答申を受け、今年度中に改定・告示する。早ければ、11年度にも完全実施される予定だ。
 全体授業時間は小中とも約4〜5%増加。また、ゆとり教育のため現行指導要領の目玉として導入された「総合的な学習の時間」(総合学習)は小中学校ともに削減され、小学校で280時間、中学校で190時間になる。総合学習は現在、各教科の横断的な授業にあてられている。
 小学校では算数が現行よりも16・3%増(6年間計1011時間)、理科が15・7%増(同405時間)となるほか、英語(外国語活動)は小5から必修となり、6年生とともに年35時間ずつ割り当てた。
 中学校では、3年間で計155〜280時間あった選択教科を1年生で廃止。2〜3年生は総合学習に吸収し、両学年とも年35時間を上限に教科指導できることにした。この結果、理科は32.8%増(3年間計385時間)、英語は33.3%増(同420時間)、数学は22.2%増(同385時間)になった。
 主要5教科と保健体育(同315時間)を合わせると約2割増になるものの、選択教科は現在、6割以上の時間が主要教科の指導にあてられており、この時間分を除く主要教科の実質的な増加分は約12%になるという。
 今回改定の教育内容に関する改善事項では、(1)各教科で読み書きや表現力を持たせる言語活動(2)理数教育(3)伝統や文化に関する教育(4)道徳教育(5)体験活動(6)小学校での外国語活動−−を充実・導入させる方針が示されており、授業時間数も理数を中心に増加した。【高山純二】

 中教審のひと言一言に惑わされて、迷走している感が強い昨今の教育改革だけれど、ここにきて再びゆとり教育からの転換がおこなわれようとしているようだ。

 この30年間は授業時数の漸減傾向にあったとはいえ、管理人が小学生の頃はまだ詰め込みの名残があった。ただ、それでも担任から「独自性」「個性」ってことを耳にタコができるくらい繰り返し言われた。小学生に個性って言われても無理があるだろうと、今になって思うのだけど。
 恐らくそれは詰め込み教育では養うことができない「独創性」とか「生きる力」みたいなものを養なおう、という教育理念上の流れがあったのだと思う。それが後に「総合的な学習の時間」が設けられるに至るのではなかろうか。
 
 明治開国以来、そして戦後改革以来、日本の教育はまさに「追いつき追い越せ」をスローガンとする時代状況に合致すべく詰め込み教育が行われ、それは非常にプラスに作用した。しかし、80年代以降、目標となる欧米と同じ先進国入りをすると、詰め込み教育はその目標を失うことになる。
 それに変わる理念が「独創性」であったのではないか。これからの日本はどこかの国をモデルにするのではなく、自らの力でモデルとなるような独創性のあるモノを産み出していかなければならない。そうした国際社会で生きていくための独創性を産み出すべく、教育の世界にも「独創性」が求められたのだ。
 

 そして「7・5・3」といわれる授業内容を理解している生徒の割合を改善すべく「ゆとり教育」が掲げられた。たしかにゆとり教育は授業内容の削減を含んでいた。しかし、ゆとり教育が狙ったのは、授業内容を減らすことで、7割の児童しか理解してない(中学では5割の生徒しか理解できていない)授業内容を全員が理解できるようにする、という方針転換にこそあったのだろう。

 ここで重要なのは総合的な学習もゆとり教育も子どもたちに勉強をしなくていい、ということを言ったものでは決してなかったはずだ。いままで必要以上に知識の詰め込みに割いていた時間を、自ら調べ、考える児童・生徒が主体的に学ぶ時へと充てる。あるいはそれまでの学校教育で疎かになっていた、文化・芸術活動への参加や、地域社会への行事などの取り組みをとおして、教科書では学べない生きる力を身につける、そういう趣旨ではなかったのか?


 結局、そうした理念を描きながら、文部省・文部科学省はそれにたいするサポートを十分やってこなかった。すべては現場の教職員に丸投げで、予算もスタッフも増やさず、ペーパーの上での「授業計画」だけを変更すれば、それで万事解決するとでも思っていたのではないか。

 ゆとり教育の失敗について中教審が今回謝罪をしだが、それは何に対して反省しているのか?
 ゆとり教育という理念を掲げながらそれを全くと言っていいほどサポートしなかったことにたいする反省はそこにあるのか。一見すると反省しているようで、全くその反省はあさっての方向をを向いているのではないか。

 場当たり的に中教審の答申にぐらついていて、迷走してばっかりだ。
 その意味で彼らは責任を果たしているとは言えない気がするのだが。