あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

「政界学」ではなく政治学〜小沢辞任問題

 丸山眞男『現代政治の思想と行動』の追記および補注おいて次のような一文がある。

 …ナショナル・インタレストの明確なイメージと、そこから生まれるプログラムを保守・革新双方とも持ちあぐねている点に、現在の日本の政治的真空状態が象徴されている。そのことを端的に示すものとして、国際政治の水準と日本の「政界」の水準との落差が、今日ほど大映しに国民の目に映し出されたことはない。しかも国際政治と国内政治がこんなにも切り離せなくなってきた今日に! 毎朝広げる新聞には、エジプト・近東・東欧諸国における、ほとんど第二次大戦にも匹敵するような世界史的な事件とそれをめぐる各国の指導的政治家のあわただしい動向が報道されているその同じ紙面に、総裁後継者をめぐる保守党内の―当事者以外には殆ど理解できない複雑怪奇な―派閥間の抗争と取引が延々と「解説」されている。
 (中略)
 …政党がこのように左右共に遊離し、特に体制政党によって構成される「政界」の関心事が本質的に私的=非政治的な事柄で占められる結果、―そうして日本の新聞社の「政治部」は正しくは「政界部」と呼ぶのがふさわしい伝統を持っているために、―真に政治的意義を持った出来事や問題は、外報面は当然としても、経済面や、学芸面、いやそれどころか、もともと三面記事と呼ばれる支持を扱ってきたところの社会面や家庭面の記事の中に、むしろいわゆる政治面よりもヨリ多く見出されるという倒錯的現象がますます甚だしくなってきている。
丸山眞男『現代政治の思想と行動』531ページ)

 「日本の政治的真空状態」と過去において丸山が指摘してきたことが今なお日本政治に見られるというのは一体何を意味するのだろうか。今回の一件もまさにそうであって、「政治」とは言いながらも実際に起きた、そしてテレビ・新聞各社が報道したことは「永田町」という極めて狭い空間で起こった「政界」の話に過ぎないのではないだろうか。

 新聞を読めば、今回の福田・小沢のトップ会談を仕組んだのは「かの」ナベツネこと渡辺恒雄読売グループ会長であったとか、いろいろ報じられてはいるが些末な問題だろう。(ただし、ゴシップ的内容になるが5日の読売新聞朝刊の小沢批判は凄まじいものがある。ここまで内情を報じていることこそが逆説的に渡辺恒雄の関与を証明しているが…)

 問われるのはそれこそ「ナショナル・インタレストの明確なイメージ」であり、そして、衆議院参議院与野党の多数派が異なる「ねじれ国会」(あるいは「07年体制」)における政党政治のあり方はどのようにあることが望ましいのか、ということにある。

 そうした問題の立てからからすれば、インド洋での給油補給はナショナル・インタレストに合致するのか、から始めなければならない。そもそも大連立構想は給油を継続すべくテロ特措法を成立を念頭に置いて持ちかけられたものであるが、その前段階として給油の継続or中止のどちらがナショナル・インタレストになるのか、という議論である。そこへの議論がないがしろにされたまま、政策協定や連立というのは順序が逆だ。

 トップ会談で打診された大連立構想民主党内の役員会で全会一致の否決を受けたからと言って、直ちに辞任するのも無責任だといえるだろう。民主党自民党と連立内閣を組んで政権与党になるというのは参議院選挙での主張と全く一致しない。(この場合、政権交代こそがナショナル・インタレストであるという判断だろうからである)。
 大連立という提案に役員会での採決を求めるというのも、これほど重要な案件をいくら代表とはいえ、小沢の一存で決めるわけにはいかないから当然だ。
 だとすれば、トップ会談以降、民主党役員会の招集→連立の要請を拒否というのは非常に妥当な手続きであった。

 それにも関わらず、である。

 このウラに何があったとか、誰かが画策していたとかはまさに既述したとおりの些末な問題であって、さしたる重要性はない。
 手続き上の正当性が存在するにもかかわらず、ある意味「その程度のこと」で辞任すれば政治に安定性は生まれてこない。(もちろん選挙での大敗を受けてもなお総理大臣の座に居座り続けるのは論外だが)


 国会が「ねじれ国会」(「07年体制」)と呼ばれる状況になって以来、年金問題、守屋 前・防衛省事務次官の接待の問題、自衛隊給油の提供量の報告がきちんと為されていなかった問題…というように参議院選挙前では数によるごり押しできちんと議論されなかった案件がきちんと議論されるようになってきた。これはまさに「ねじれ国会」の成果である。
 確かに「ねじれ国会」という状況は法案審議に時間ばかりかかり、矢継ぎ早に政策が実現できないという難点もあろうが、しっかりとした議論がなされることはデモクラシーにとってむしろプラスであり、もっと積極的に評価して良い。


 本来であれば議会政治において与野党が双方に議論を展開し、有効な譲歩や妥協を行いながら政策を実現していくことが議会制民主主義における理想的なあり方であろう。衆議院参議院の多数派が異なる現状においてはなおさらそうである。
 それでも有効な譲歩や妥協が行われない場合、政治が停滞・混乱するのをを防ぐべく日本国憲法は第59条第2項において衆議院の優越を規定し、衆議院での3分の2以上の再議決によって法案は成立するようになっている。これは立憲政治の否定でも何でもない。(こうした自体を予見し憲法に規定を盛り込んだ先人の先見性には感心する)

 もちろん制度の濫用は防ぐべきだが、与党は自らの政策が正しいと判断し、なんとしても早急に実現しなければならない政治上の課題があると考えるのであればそれは憲法の規定に従って法案の成立を図るべきだろう。
 そうした政権与党の判断が正しいかどうかは次に行われる衆議院選挙において有権者が判断すればよい(来年度予算成立後の適当な時期に堂々と衆議院を解散すればいいだろう)ことであって、その時に有権者は自らの責任において判断するのである。それが議会制民主主義における政治の望ましいあり方のうちの一つだとは思う。

〔新装版〕 現代政治の思想と行動

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