あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

だから環境なんてそっちのけ?@浅野裕一『古代中国の文明観―儒家・墨家・道家の論争』 (岩波新書)


 スキーに行ったハナシにでもしようかと思ったけれど、帰りのバスの車中で読んだ本についての感想を先にしようと思う。というのも、フォトをupするのが面倒くさかったという管理人の怠惰な性格に由来しているのだけれど(苦笑)。
 そのへんは「ご愛敬で」。

岩波書店HPより)
古代中国の文明発生時,都市建設に伴って大規模な自然破壊が行われた.孔子墨子老子等の諸子百家は,この問題についてどう考えたのか.彼らの間でかわされた論争を交え,その文明観を紹介する.自然と文明の関係が切実な問題として問われている今日,ここに環境問題を考える際のヒントが含まれているのではないか.

著者の浅野裕一中国哲学を専攻する東北大教授。あとがきにもあるように環境科学研究科に移ってから、自身の専攻とする中国哲学と環境問題を絡めて考えてみようとおもった一つの試みが本書であるといえるだろう。
 そうした経緯があるから、本書の性格は主に儒家墨家道家の3つの古代思想を紹介しつつ、その文明観・自然観軸に対比させようとしたものだ。したがって、正面切って文明観を論じたものとは言い難いものの、それぞれの思想(もしくは思想流派)が自らの思想の前提としてどのような自然観を持っていたかということを理解する点においてわかりやすく紹介されていると言っていい。

 その中で管理人が面白く読めたのは「なぜ、文字の発明が“鬼”を号泣させることになったのか」というくだりだろう。そこでは古代より続いてきた口頭での言語に含まれてきた一種の神秘性や呪詛性といったものが文字の発明によって切り離され、言葉は記録されるものとしての性格を持つようになるのである。ここでなされる「話し言葉」と「書き言葉」の違いというのは、確かに西洋起源の言語学の構図とは様相を異にするけれども、それでも比較対象として考えると面白い。もっとも、まだ管理人はウィトゲンシュタインフッサールもまだ読み込んでないからどこがどーだとか言えないんだけど…。

 そのほかに気になった箇所を二つ。
 一つ目がそれぞれの思想が生まれた時代背景で、まさに「思想は時代の落とし子」であるという点である。たとえば、著者は儒教の成立は衰退しつつあった周王朝を立て直すには「礼」を再興することが必要であると説き、その理想とする社会は周王朝での階層的な社会構成であったと考える。それと同様に、墨家は春秋戦国期の小国分立にあって、それぞれの国の穏やかな結合体を望もうとしたものであるとか、思想史的背景を押さえることで、それまで「教典」のごとく扱っていた儒家思想や墨家思想が現実を直視した生きた思想であることが分かってくる。

 二つ目がそれぞれの文明観である。

  • 儒家は自然は無限であり、文明の発達を全面肯定する。ゆえに分をわきまえさせるために富者は豪奢に、貧者は貧相に暮らすことが求められる。
  • 墨家は自然は有限であり、従って人間は勤勉・倹約をしなければ文明は維持できないと考えた。
  • 道家は文明が発達することで次々と欲望が生まれる人間は、次第に人間の本性が忘れ去られてしまうから、自然に帰るよう考えた。

 この道家の文明観はまさにルソーの『人間不平等起源論』や『学問・芸術論』にも見られる指摘であるが、ルソーよりも遙か以前に道家はこのことを説いている。(そのあたりの相違は、管理人の将来の課題。多分考えなさそうだけど。)

人間不平等起原論 (岩波文庫)

人間不平等起原論 (岩波文庫)

 儒家墨家道家の思想のうち、結局、中国においてその後、強い影響力を発揮したのは儒教であった。ところで、この儒教の自然は無限であって文明の発達の全面肯定は、マルクス「主義」と相まって現代中国の環境観を如実に反映したりはしていないか?なんて思ったりもする(しかも高度成長を続けているし、経済成長に水を差してまで環境対策をするとは思えない。かつての日本がそうであったように)。ただし、日本の環境破壊の程度よりも、あれだけの規模を持つ中国で環境破壊が進んだ場合、その影響は桁違いの結果をもたらすんじゃないかとは思う。
 とはいえ、この二つの思想の化合物としての現代中国の環境観を覆すのはとんでもなく難しいんじゃないだろうか、なんてちょっと先行き不安なことも思ってしまった。

 道家に対する評価が進めばもっと違うんだろうけど(これは管理人たちにも言えることだけどね)。
オススメ度→★★★★☆