あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

既に螺旋は始まっている?@映画『靖国』上映中止

映画『靖国』上映中止 “自粛”の連鎖 表現の危機 劇場現場より会社の意向?
東京新聞 2008年4月2日 朝刊

 靖国神社を題材にしたドキュメンタリー映画靖国 YASUKUNI」(李纓(リイン)監督)は、すでに上映中止を決めていた一館に四館が追随、国内最大のマーケットである東京で作品が見られないという事態になった。劇場側は抗議や嫌がらせによるトラブル回避を理由に挙げているが、今後、上映を予定する地方に“自粛”が広がっていくのではないかと懸念する声が出ている。 (近藤晶)
 「お客さんや近隣への迷惑もあり、通常の上映環境を維持できるとは思えない」。銀座シネパトスを経営する「ヒューマックスシネマ」は先月二十六日、同映画の配給協力・宣伝会社「アルゴ・ピクチャーズ」に上映中止を伝えた。同二十日ごろから劇場前で街宣車などの抗議を受けていたという。
 アルゴ・ピクチャーズが、他の上映劇場にシネパトスの中止を伝えたところ、渋谷Q−AXシネマに加え、シネマート六本木とシネマート心斎橋を経営する「エスピーオー」も中止に。これら三館では、これまでに抗議などはなかったというが、シネパトスの自粛で、嫌がらせや上映妨害が集中する恐れがあったという。
 全館中止に至るまでには、一連の流れがある。先月上旬、一部の国会議員が、同映画に文化庁所管の独立行政法人から助成金が出ていることを問題視。同十二日に国会議員を対象とした異例の試写会が開かれた。その数日後、新宿バルト9を運営する「ティ・ジョイ」が上映中止を決めており、他の劇場が追随した形だ。
 十年前の一九九八年、横浜市の映画館で、南京大虐殺を扱った映画「南京1937」の上映初日にスクリーンが切りつけられる事件が起きた。その後、公共施設などで上映を拒否する動きが広がったことがあった。
 同映画の全国上映委員会代表だった、名古屋市の映画館シネマスコーレの木全純治支配人は「『靖国』の中止は、残念としか言いようがない。劇場側が見せるべきだと思えば、石にかじりついてでもやるべきだ」と自粛の動きを批判。「今後、より敏感になる劇場が出てくる」と影響の広がりを懸念する。
 最初に中止が決まった新宿バルト9を運営するティ・ジョイシネコン大手。「靖国」のような映画を上映するのは、極めてまれなケースだ。木全支配人は「大手だと何かあった時にすぐ引いてしまう」と指摘。別の映画関係者も「一連の報道などを受けて作品を選ぶ劇場の現場より、経営会社の意向が強く働いたように思える。内容どうこうという問題ではないのではないか」と憂慮している。
 東京・大阪での上映中止は、札幌、名古屋、京都など今後、上映を予定している他の映画館の“判断”にも影響を与えそうだ。東京で公開されないと、雑誌などで作品の内容が紹介されず、宣伝が不十分になる。興行的にも難しく、先行上映しにくい、という実情もある。
 上映を予定している劇場の一つは上映するかどうかについては「近く配給会社と話し合いたい」としている。
 映画ジャーナリストの大高宏雄さんの話 今回の問題は、数カ月ほど前からマスコミでも取り上げられてきたが、なにやら危なそうだ、という実態のないものだ。こういう形で公開が中止になるのは大変な問題。憂慮すべき事態だ。
 「劇場はだらしない」などといわれるが、一概にはいえないだろう。映画館としては女性の従業員が多く働いており、上映後のことも考えないといけない。 
 ただ上映中止を決めた映画館が再び上映に踏み切ることは考えにくい。そこで、この映画を上映したいという個人映画館をあらためて募ったらどうか。何としても公開のめどを立てる方策をとってほしい。前例をつくらないためにも、そうした努力が不可欠だ。
 映画監督・森達也さんの話 問題視した稲田朋美衆院議員が個人的に批判するのはまったく構わない。しかし、国政調査権を盾に映画を見せろと要求し「政治的イデオロギーを感じた」と言っていることには違和感がある。
 映画は表現であり、すなわち思想だ。メッセージが偏ってはいけないとか中立であるべきだというのだろうか。根本的に映画が分かっていない。こんな低レベルな言辞に振り回された映画界は反論しないまま幕を下ろそうとしている。
 腰の据わった映画館が動きだすことを期待するほかない。メディアの反応が冷えきっているのも問題だ。これほどの由々しき事態になぜもっと問題を提起しないのか。

<映画「靖国 YASUKUNI」> 19年間日本に住む中国人の李監督が、終戦の日靖国神社を訪れる参拝者や遺族、「靖国刀」を造る刀匠の姿などを10年間にわたって記録した日中合作のドキュメンタリー映画。釜山やベルリンなどの海外映画祭でも上映され、香港国際映画祭では最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。

 どこの国の話かと思えば、なんてことはない、日本の話である。このことがなぜ問題かと言うことについては、すでに靖国 YASUKUNI」 - 恐妻家の献立表でエントリを立てられているからあまり繰り返すのはどうかと思うので繰り返しは避ける。ただ、管理人個人としてはそれに付け加えて、安倍晋三負の遺産は総辞職後も日本社会に一定の影響を及ぼしていると考えざるを得ないと考える。
 もっとも全てを安倍ひとりの所産と考えるのはあまりにも短絡的だろう。だが、安倍晋三という政治家が総理大臣になったことにシンボリックに表されていると見れば、偏狭なナショナリズムが最近下品に露出していると、捉えることも出来るだろう。
 ここでいう、安倍の負の遺産とは本来、自由民主主義社会には多様な意見が存在し、それは一定のルール(憲法など)に則って表現可能であるという、自由民主主義の基本的枠組みを破壊してしまったことにある。
 日本には「YASUKUNI」を上映できる自由も、同時に「俺は、君のためにこそ死にに行く」を上映できる自由もある。だが、先頃の日教組の集会に対してプリンスホテル側が裁判所の命令を無視して使用拒否をした一件以降、そうした自由民主主義社会の枠組みが徐々に融解しているのではないだろうか。今回の映画館側の「顧客や周囲への迷惑」という釈明は、プリンスホテル側が以前行った釈明と全く同じ構造だ。つまり、自分たちに非はない、という点で共通する。そこへは結社・集会の自由や表現の自由に対する配慮は感じられない。
 以前、ノイマンの「沈黙の螺旋理論」(http://d.hatena.ne.jp/takashi1982/20061001/1159712064)を紹介したとき、J.S.ミルを引き合いに出しながら、反対意見や異なる意見も実は真実を含むモノだったり、多数ある意見の問題点を指摘するモノである可能性がある、という点で尊重されねばならないと説明した。多様な意見が尊重されず、一つの考えが支配的になると、やがて社会は硬直化し、その社会は活力を失うことになる。
 既にプリンスホテルの一件で、「触らぬ神に祟りなし」のような一種の「自粛」の雰囲気が漂いだしている。このことはまさに「自粛」という「螺旋」が始まっていることを示すのではないか。
 街宣右翼が本当に「保守」であるのならば、日本社会の持つ本来的な寛容性をなぜもっと擁護しようとしないのか、不思議である。もっとも、右にせよ左にせよ極端に突っ走る人々は大概にして他者の異なる意見には不寛容になる傾向があるのだろう。それでいうと、この記事とも関係するのかもしれない。

中国の人権弾圧を批判 アムネスティが報告書

東京新聞 2008年4月2日 08時17分

 【ロンドン1日共同】国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)は1日、中国の人権状況について「中国政府は北京五輪で『安定』や『調和』を世界に演出するために、逆に人権弾圧を強めている」と批判する最新の報告書を発表した。
 カーン事務総長は、五輪開催は中国の改革を促進する役割を果たしていないと指摘し「国際オリンピック委員会(IOC)や世界の指導者らは、強い非難の声を上げるべきだ」と訴えた。
 報告書はチベット情勢について、デモ鎮圧の際に治安当局の「国際的な人権基準に反する」取り締まりがあったと指摘。拘束された住民への暴行や拷問が行われる可能性に懸念を表明し、中国政府に(1)平和的なデモ参加者の即時釈放(2)すべての拘束者の身元公表(3)独立した監視団の受け入れ−などを勧告した。

 何をもって「愛国」とするのか?という問いは確かに非常に難しい。これらに共通するのは「自分の考えと違う考え=非国民」的な発想である。そうであるならば、街宣右翼の活動は中華人民共和国政府のチベット弾圧とある意味方向を同じくするという(本人たちにしてみれば)矛盾を犯してはいないのだろうか。

沈黙の螺旋理論―世論形成過程の社会心理学

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自由論 (光文社古典新訳文庫)

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愛国者は信用できるか (講談社現代新書)

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