あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

だったら桝添も泣けばいい

 マスメディアの、それもとりわけテレビという媒体は現象の一面だけを切り取って映し出すモノだということは分かってはいるんだけれど、それでも橋下徹の涙を取り上げるにつけて、ますますその思いを強くさせられた。
 ここでは1000億円以上になる削減云々の妥当性や、そこまでの手法云々といったことは問わない。

 しかし、大阪府内の市町村長に次々と苦言を呈せられ、涙を流すシーンを見ると、果たしてこの涙はいったい何なんだと思ってしまう。

 政治家の涙というのは過去いろいろなパターンがあった。意味もなく泣いていたのは大仁田厚参議院議員だったよね)だけれど、他にも、外務省問題の対立で田中真紀子が涙を見せたり、証人喚問を受けた辻元清美や、記者会見場の鈴木宗男なども「画像として残る」涙を流した政治家として挙げられるかもしれない。

 しかしながら、管理人の印象に残る政治家の涙というのは、やはり薬害エイズ問題で患者の訴えに耳を傾け涙を流した菅直人と知覧から飛び立った特攻隊員の若者たちの遺書を目にして深い思いに駆られた(と、一応いわれている)小泉純一郎がいるだろう(この件を涙を流したというカテゴリーに含まれないのかもしれないが…)。
 この二人の涙に共通なのは自分以外の他者への共感が涙を流させたといえるだろう。
 人間関係が個人に還元される近代は中世的な静的道徳秩序をそのまま継続させることは困難である。しかし、そうした状態でも秩序を維持しようとするのであれば、それは人間が本性として持っている他者を思いやる気持ち、すなわち「同感」を用いなければならない、というのがアダム・スミスの考えであった。
 さらに付け加えて、大嶽秀夫の分類によれば、確かにこの二人の政治家はポピュリスト政治家として、世論の支持を受けつつ改革を推進しなければならなかったという側面はあるものの、涙を流すという行為の裏には他者への同感が作用していたと考えることが出来るだろう。


 それに比べると、今回の橋下の涙はどうか。
 橋下もまた上述した二人の政治家と同様、ポピュリスト政治家であるのだろう。彼は高い世論の後押しを受けて大阪府政の改革に望んでいるものと思われる。なぜならタレント弁護士といういわば「政治の素人」が人口900万人に迫る大阪府という地方政府の長として滞りなくその職責を全うしようとするならば、常に高い世論の支持を権力資源に、自らを「改革の旗手」として有権者にアピールし続けなければならないからだ。

 また、橋下が涙を流した文脈も重要である。
 今回、橋下が涙を流したのは「同感」からではない。橋下は自らが提示した1000億円以上の予算削減の必要性を訴える中で涙したのである。その涙は行政の怠慢によって人生を大きく変えられた薬害エイズ被害者や若者たちが本来持つはずであった未来を奪われたその境遇への同感とは全く別のものである。もっと極端に言ってしまえば、橋下は自ら涙を流すことで、改革に邁進する自分という鏡像とシンクロし、完全にカタルシスに陥ったのではあるまいか。
 そうであると考え、さらに、橋下のこの行為が大阪府民の喝采を浴びたとすると、管理人としてはエントリタイトルに至るのである。すなわち「桝添も泣けばいい」のだ。後期高齢者医療制度の正当性を訴えるために、「大阪を」ではなく、「日本を立て直す」というロジックのもとに反対意見に対して、涙ながらに訴えればいいのである。
 だが、その桝添の涙が仮にあったとして、我々にとって納得できるものでは到底ないものだとするなら、今回の橋下の涙もまた本来納得できるものではないはずだろう。

 もちろん、そうした政治家が涙するという状況を肯定しているのではない。理性による説得と判断が政治家に求められる資質であると考えるのであれば、先に仮定したような政治状況が正常であると言えることは全くないだろう。

道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)