あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

この卓越したセンス@リースマン『孤独な群衆』(みすず書房)

孤独な群衆

孤独な群衆

みすず書房HPより
今日のわれわれが面している社会は、大規模な近代産業社会である。これを下から支えている尨大な中間層の社会的性格はどんなものか?

現代人は「他人指向型」性格(いわゆるレーダー型)が支配的であって、かつての伝統指向型や、内部指向型(ジャイロスコープ型)は過去のものになりつつある。卓抜な方法と着実な調査にもとずく、現代社会の変貌の立体的な分析がこれである。いま、現代人必読の書に必ずあげられている名著である。

 1950年に書かれた(1960年に新版が出た)『孤独な群衆』は、まさに現代社会学を考える上での古典と言っていい記念碑的作品だ。読まなくちゃいけないと思いつつ、積読状態だったのだけれど、きっかけになることもあったのでようやく読むことができた。
 孤独な群衆は、原著のTHE LONELY CROWDをそのまま訳したモノである。しかしながら、この表現はなんと卓越しているのだろう。そして、このタイトルにリースマンの指摘が最良の形で凝縮され表現されていると言える。
 つまり、市民社会から大衆社会へと移行した現代社会にあって、人々は個人から大衆のひとりへと変容しているのである。それはまさにその場に大勢の人間がいるにもかかわらず、その中の一人ひとりの人間は孤独であり、常に他者との関係を求めているという状況を表現しているのである。

 本書の内容については、多くの社会学政治学等の解説書で説明されているとおりである。かつての中世、封建時代にあっては人々は宗教や古来より続く「しきたり」といった慣習・伝統に依拠した行動指針を持っていた。こうした行動指針を持つ人間をリースマンは「伝統指向型」と分類したのである。
 その後に展開される、ルネサンス宗教改革、そして市民革命は人々を宗教や伝統の桎梏から解放する。それによって、人々は自己の中に内面化された理性を頼りに行動することになる。こうした人間を「内部指向型」と呼ぶ。
 市民革命を経たあとの社会は一般的に近代市民社会と呼んでいる。この産業革命以降、大量生産・大量消費といった生活ならびに選挙権の拡大や初等教育の普及などによって、社会は豊かな社会へと大きく変容し、大衆社会と呼ぶべき状況が生まれるのである。
 こうした状況にあって人々は、今まで見てきたような伝統指向型や内部指向型の行動指針を持つ人間像を持つことはできなくなってしまった。この社会では人々は外部の他者の期待や好みに敏感になる、他者と同調することを行動指針とする人間像が生まれるのである。こうした人間類型を「他人指向型」と呼んでいる。
 こうした社会や人間類型の変化をリースマンは歴史社会学的な見地から両親や教師の役割の変化、同輩集団の変化、歌と物語、マス・メディアといった広義におけるメディアの変化などを細かく見ていくことによって立体的論証しているのである。(もっとも、これら具体的に説明される箇所は目的を持って読まないとなかなか忍耐を要する記述ではある)

 こうした人間類型は政治に際してどのような関係にあるのか。
 リースマンはこれらの人間類型におおよそ対応するような形で、無関心、道徳屋、内幕情報屋などの分類を行っている。(それ以上の話は割愛)


 このようにしてみると、何となく、現代社会における他人指向型の人間類型はマイナスイメージで捉えがちであるが、リースマン自身は全くそうした意図はなく、他人指向型の人間は他者への配慮や思い遣り・優しさを持ち、そうした人々によって構成する社会が現代社会であるとも考えられる。
 本書は1950年という、いまから半世紀以上も昔に書かれたモノである。そこには当然、こうした類型そのものの妥当性が問われるのかもしれないが(「理想型」としての社会類型批判がどの程度有効かと言うことについての議論を始めると堂々巡りになる)が、現代社会の分析として、冒頭に表現したとおりの「古典」としての地位を不動にするほどの鋭さを含んでいるといえる。