あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

絶望に抑止力は通用するか

 既に多くのところでも書かれている秋葉原での通り魔事件。まずこの凶行の犠牲になった方々のご冥福と、負傷された方々の一日も早い回復をお祈り申し上げます。
 
 朝に新聞を読んで今日が大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件から7年という同日にこのような凶行が起こった。しかも、どちらも共通するのが無差別殺人であり、自身の生への執着の無さが引き起こした破滅型の殺人である。
 圧倒的に情報が不足している現段階で、この事件に対してあれこれと考えを巡らすのは危険かもしれない。ただし、管理人が気になったのは犯人は自らの置かれた状況に対して絶望し、このような犯行に及んだものとされている。(ただ、そうした裏にどのような状況や考えがあったのかは今後の取り調べ並びに裁判の過程で明らかにされていくものと思われる。)
 
 こうした自らの生死を問わない人間による凶行には、厳罰主義や死刑による抑止力は全く通用しない。厳罰主義の限界はここにある。なぜなら厳罰主義並びに死刑による抑止力は犯罪の実行とその刑罰との関係において、刑罰がよりリスクとして重いと判断されるから抑止になるのである。(ゲーム理論
 しかし、今回のように、自らの人生に展望が全くないと犯人自身が自己認識している場合、あらゆる刑罰の持つリスクというのは全く問題にならなくなる。なぜなら、自分の置かれている状況に絶望し、将来への展望がないとすれば、それは生きながらにして死んでいるのと同じかそれ以上に苦痛である。だとすればその人間にとってあらゆる犯罪は実行可能な選択肢として登場することになる。それが無辜の大衆を巻き込むものであったとしても、だ。
 ここでは多くの倫理的な観点からの説得も無意味となってしまう。自らが主体的に生きていくことを放棄してしまっている状況において、よりよく生きるための倫理・思想は説得力を持たない。すでにこの社会において関係性を維持して生きていこうという意志のない人間に一体どのような言葉があるのだろうか。(もし、仮にあるとすれば、それは困難な状況が来世への幸福へ繋がる、というような宗教ではないか?―たとえばユダヤ教―だが、犯人はそのような信仰を持たなかった。だが、これは一歩間違えるとマルクスの『ユダヤ人問題に寄せて』にあらわれるように「宗教はアヘンである」ということにもなりかねない)

 そのように考えていった場合、われわれはどうすればいいのか。
 ブレア政権時代のイギリスではそれまでの労働党内で有力であった刑事事件被告人の社会復帰という犯罪観、つまり犯罪は社会が生み出したものだという犯罪観から、「犯罪に厳しく、犯罪の原因にさらに厳しく」という方向へとシフトしていった。現在の日本でも「犯罪に厳しく」という厳罰主義的な考えは体感治安の悪化も手伝って急速に広がっている。ただ、日本に欠けているのはやはりそのスローガンの後半部分である「犯罪の原因にさらに厳しく」という観点ではないか。
 昨日、講演会に行ったというのも多分に関係しているのかもしれない(テーマが若者と貧困)が、若者が自らの将来の展望が全くない状況に起因する閉塞感をなんとかしなけばならないのだ。社会学者の山田昌弘が指摘するように、バブル景気までの日本のように学歴社会のパイプが機能し、どんな家庭に生まれていても、ある程度の教育を受ければ、ある程度の将来の生活が送れるという「希望」が誰にでも持てた状況とは異なり、今ではそのパイプが至るところで「漏れ」ているのである。パイプが漏れているから、それまでであれば保障された将来の生活が保障されなくなり、さらに、富が徐々に偏在し、そこに格差が生じつつある。そうなると、自らの生まれた環境や、さらには機能しなくなりつつある学歴社会のパイプから、自らの将来に対する「希望」に「格差」が生じ、中には全く将来の展望が描けない、まさに八方塞がりのような状況に直面してしまう。
 その文脈から考えれば、赤木智弘の主張もその延長線上に当然出てきてもおかしくない。そして、今回のような凶行が起こってしまうこともあり得るのである。

 注意しなければならないのは、だからといって、この犯罪が社会のせいであるから犯人に責任がないと言うことでは断じてない。「犯罪に厳しく、犯罪の原因にさらに厳しく」の通り、無辜の大衆を殺傷する犯人に情状酌量の余地は全くない。未来ある若者の命を奪い、愛する夫や子供を喪った遺族の苦しみは察するにはあまりあるものである。

 ただ、これを個人の特質のみに帰する論調は事件の再発防止の観点から考えて、むしろマイナスであるだろう。犯人において、そのような社会状況が、凶行を実行するに至るまでの思考に影響を与えたのであれば、そうした社会状況の改善を考えないと、このような破滅型の事件というのは増えることはあっても減ることはないのではないだろうか。