あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

25歳は保護下にあるのか?

午後7時25分、住民や報道陣約100人が囲むなか、両親はタクシーで帰宅。玄関前で会見に臨んだ。父親は「社会に与えた不安もかなりあったと思っております。本当に申し訳なく思います」と頭を下げた。そして「本日警視庁の事情聴取が終了しました。皆様にお答えできる内容はかなり難しいと思いますが、おわびだけ申し上げます」と毅然とした表情で述べた。

 記者団から「事件を防げなかったのか」などの質問が出たが、父親は「捜査の関係もあり、この場ではお答えできない」。社会的責任を問われると「謝っても謝っても償いきれません。まだ心の整理もついていない」と三度頭を下げた。加藤容疑者については「(取り調べに)正直に述べてくれればと思います」と、原因解明を捜査に託し、約5分で終了した。

 10日に毎日新聞の配信した記事。秋葉原の通り魔事件、25にもなって果たして親の責任をどこまで求める気でいるのだろうか。
 自由と責任の関係らすれば、自由が存在するからこそ責任があるのである。逆に言えば、自由がなければ責任は問われない。軍隊が上官の命令によって軍事行為を行った結果、多数の民間人を巻き込んだとしても、末端の兵士は責任を問われることはないだろう。末端の兵士には命令に背く自由はないからである。
 それと同じように、未成年者に刑事責任が問われにくいのは、彼または彼女に大人ほどの行動の自由が認められないからである。大人と同等の権利が与えられず、まさに「半人前」であるからこそ、責任も全て自分が被らなくて済む。これがパターナリズムである。
 通り魔事件の容疑者・加藤智大は既に学校を卒業し、親元を遠く離れ、一人で自立して暮らしていた。さらにいえば25歳である。世間一般でも完全に「大人」として見なされる年齢ではあるまいか?
 これだけの記事内容だと、親に責任を求めているような質問では無さそうだったが、既に会見の状況が、親としての責任を求めさせているかのような雰囲気を漂わせてはいなかったか疑問だ。

 正直、成人して、自立して親元離れて一人で暮らしているヤツの責任まで親がとらなくちゃいけないのなら、加藤智大をそのように育てさせた両親の親、つまり祖父母も責任があることになるのではないか。つまり、両親に対して「親になる教育を施さなかった責任がある」という論理で。
 仮に、「どーいう教育をしたんだ」的な怒りは遺族こそ訴えることが出来るかもしれないが、報道の仕事ではないだろう。

 そんなことを考えると、非常にバカらしく思えてくるし、結論から言えば、この報道は不要であるし、有害でさえあるかもしれない。