あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

不必要と言うことも必要

犬山市「体力テスト」も不参加
6月24日14時40分配信 毎日新聞

 文部科学省が今年度に初めて実施する「全国体力テスト」(全国体力・運動能力・運動習慣等調査)について、愛知県犬山市教育委員会は24日、不参加を決めた。情報開示請求が出された場合、児童数が少ない小規模校では個人のテスト結果が明らかになってしまう、というのが主な理由。同市は全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)も「競争意識をあおる」などの理由で2年連続して参加を拒否している。

 この日の市教委は、児童数が少ない小規模校の個人情報の保護のあり方が議論された。出席した校長2人から「児童が1学年1人の学校では平均値が個人の結果になる」との懸念が示された。委員からは「全員参加方式に問題がある」「テストを受けたい権利も守るべきだ」などの意見が出された。採決の結果、4対2で不参加と決まった。

 体力テストは、国公私立の小学5年と中学2年の全員を対象に握力、反復横跳び、50メートル走など各8種目を実施。生活、食事、運動習慣も調査し、各校ごとに7月までに実施する。国は年末までに都道府県別、国公私立別などの結果を公表するほか、市町村教委には学校別の結果も通知するという。【花井武人】

 学力テストや体力テストの目的は何か?

 このことをどれだけ理解しているかによって反応が分かれると思う。
 テストを行うこと自体、特段問題があると言うことはない。

 問題があるのは「わざわざ全国一律のテストを全国一斉にする必要があるのか?」
という至極当然の指摘である。

 ハッキリ言えば、全国一律・一斉にテストをやる意味など全くない。
 それは教育学的に見ても統計学的に見ても明らかである。

 文科省が現代の子どもの学力ないし、体力をきちんと把捉しておきたいならば、統計学的に妥当な方法で無作為抽出した諸学校にデータをとらせることで解決できるのである。

 昨年実施された全国一斉の学力テストの実施において明らかになったのは、過度な競争意識から、テストの答えを生徒に示唆させるような「不正」行為の存在である。

 全国一斉の学力テストを導入しようと思った背景には、学力低下を把握するという側面もあるが、公立学校ごとの競争を促すという思惑が当然存在する。それは安倍内閣で検討された教育改革の流れの一環でもあった。教育バウチャー制の導入には全校一斉のテストの実施が不可欠なのである。

 アメリカやイギリスをモデルにし、学校に競争原理を持ち込もうとしたのであるが、実際アメリカやイギリスで起こっていることは、教育の荒廃である。だから、学校教育に競争原理を導入したサッチャーから20年以上経って、ブレア労働党は総選挙の公約に「第一に教育、第二に教育、第三に教育」と訴えざるを得ないほど、イギリスにおける公教育は荒廃したのだ。

 犬山市の判断を批判する多くが、こうした一連の流れを知らない。


 彼らの言う、競争は社会にとって必要である、正論である。

 ただ、小学校から中学へ進学する段階で、多くの生徒と接することによって、子どもたちは競争が存在することを否応なく自覚する。自分より勉強が出来る友人や、絵が上手い友人、足の速い友人を、社会が広くなる中学で、更には高校で目の当たりにする。

 そして学校における競争は大学受験まで続くのである。

 既にそこには子どもなりに競争社会が存在するのである。
 かつて子どもだった我々だってそう感じたハズではなかったのか。

 競争の重要性を語るのは確かに一面では正しい。しかし、自らを含め、人生においてあなたは四六時中競争して生きているのか、とむしろ訊いてみたいのだ。
 成果主義の導入によって、企業活動における競争のウエイトは大きくなった。しかし、それが一体何をもたらしているのか、そこに反省はないのか?と言う視点が欠落している。
 教育の目的はどこにあるのか、人格の陶冶ではないのか。

 会社の論理と社会の論理は違うにも関わらず、多くの人々が「会社」に所属しているが為に、「会社の常識」で社会を当てはめようとする。だが、そこで立ち止まって考えてみるべきではないのか。

 犬山市の判断は、今まで以上に子どもに競争を煽るような、全校一斉の全国テストを拒否するという、至極まともなことだ。
 むしろ、このまともな判断すら分からなくて唯々諾々と「お上」の方針に従ってしまうコトを素直に礼賛するほど「横並び」な意識もないだろう。