あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

西崎文子『アメリカ外交とは何か』(岩波新書)

アメリカ外交とは何か―歴史の中の自画像 (岩波新書)

アメリカ外交とは何か―歴史の中の自画像 (岩波新書)

【推薦】
 著者は成蹊大学教授。専門はアメリカ外交史である。だから、といってはなんだけれど、本書を手に取る動機が「現在のアメリカ外交はどのような政策決定過程が反映されていて、そのブレーンは誰なのか」といった現在進行形の話を求めるに人にとっては肩すかしを食らうことになる。例えば、時事的な問題や、国家間との関係はどのように影響されているのか、といった話は余り出てこない。そうしたアプローチとして、国際関係論があるが、これは単純に言ってしまえばマキャヴェリやらカプランやらの、培われた枠組みを使って分析していくものである。
 そうした分析を著者は意図していない。自らの関心に対象を引き寄せるかたちで、アメリカ外交を考察するのである。そのときのツールとなるのが著者の専門である「アメリカ外交史」という、歴史からのアプローチである。従って、本書において展開されるのは、アメリカ外交における「そもそも論」なのであり、アメリカ外交というものを見るためには、アメリカという国を歴史的に(外交史的に)追っていくという作業が必要だとするのだ。だから本書は歴史書といっても差し支えない。

 従って、当然といえば当然なのだけれど、本書では建国以来のアメリカの歴史から説き始める。アメリカの社会の特徴といえば、それは「多様性が現実であると同時に一つの理念として位置づけられるようになった」ということだろう。移民から成るアメリカにおいては、民族が国家形成のアイデンティティになることはない。9.11の同時多発テロ以降、日本でも広く指摘されるようになったが、アメリカこそが世界で最も理念的な国なのである。

 アメリカ外交のまさに「原型」となったものが、あの「モンロー・ドクトリン(=モンロー宣言)」であったのだ。ヨーロッパとアメリカとの相互不干渉による孤立主義が、その後のアメリカの外交政策を決定づける。地政学的にヨーロッパとは離れたところに位置するアメリカが安全と利害を追求するためにはヨーロッパと同盟関係を築くことはむしろマイナスになる。このモンロー・ドクトリンによってアメリカは大陸アメリカとしての一体性の強調から南アメリカとの通商を行うことが出来るのだ。
 このモンロー・ドクトリンから一世紀以上経って、いわゆる孤立主義の転換が出てくるのだが、ここでも著者は新たに打ち立てられた(セオドア)「ルーズベルト・コロラリー」(コロラリーは「系統」の意)と、モンロー・ドクトリンとの連続性を指摘する。
 モンロー・ドクトリンで掲げられた孤立主義とは、アメリカの共和制がヨーロッパの王政の脅威に曝されないようにする、という側面があった。それらがルーズベルト・コロラリーになると、ヨーロッパの帝国主義から南北アメリカ大陸を保護する、という対象の転換が起こるのである。さらに、コロラリーになって明確になってくるのは、そうやってアメリカが保護すべき、南北アメリカにおいて、アメリカはまさにこの地域の国家警察として内政干渉も含むものとするのだ。
 しかし、これは「理念の国家」アメリカにしてみれば内政干渉には当たらない。既述したとおり、アメリカの介入は自由や人件の確立を目指すものであり、「望ましい状態」へと啓蒙することだからである。

 ルーズベルト・コロラリーは、ウィルソンに至ると一層際だつことになる。オーストリア宰相・メッテルニヒに代表されるような「玄人」による外交こそが当然とし、秘密交渉や政治的駆け引きに明け暮れるヨーロッパは第一次大戦という未曾有の戦争の主戦場となる。さらに、1917年にソビエト連邦の成立を目の当たりにして、アメリカはモンロー、ルーズベルトと続いた、自由や民主主義の拡大を世界規模で実施することを目指すのである。
 それから一時的な揺り返しはあるにせよ、アメリカ建国理念の世界規模での拡大はさらなる広がりを見せる。それは大西洋憲章にも現れ、まさに「パクス・アメリカーナ」(アメリカによる平和)の実現を目指そうとするものへと深化していくのだ。
 こうしたアメリカの思惑に水を差したのがソ連の存在である。自由と民主主義のアメリカにソ連は平等と共産主義を持って国家の存在理由・価値観を巡って対立していくことになる。東西冷戦はそうしたアメリカとソ連の対抗という関係から読み解かれることが多いが、実はアメリカ側にとってみれば、ソ連アメリカが描く「一つの世界」を妨害する存在なのである。
 この一つの世界を目指すアメリカが直面する、「現実に存在する二つの世界」を認識し、自らの価値観の徹底的な擁護こそが冷戦コンセンサスなのである。この「宣教師的な」アメリカ外交の転機となったのがヴェトナム戦争に他ならない。この戦争の敗北によって、キッシンジャーに代表されるようなリアリズム思考の外交が登場してくることになるが、これはそれまでの理念優先の外交から、国益重視の外交へと転換する過程でもあったといえる。
 しかし、国益重視の外交は著者が別のところで使った言葉を借りれば「タテマエ第一主義からホンネ第一主義への転換」であり、フランシス・フクヤマネオコンはこの考えを体現していると言っても差し支えない。結局、ベトナム戦争の本質的な反省をすることのなかったアメリカは、ソ連の崩壊という、冷戦構造の集結によって、また新たな段階へと進むことになる。
 湾岸戦争や9.11の同時多発テロへの報復に対して、まさに「一つの世界」とその世界の擁護者としてのアメリカという側面が全面に現れるのである。湾岸戦争への国際社会の対応がアメリカの望むような「一つの世界」を実現しているかのように思われたからである。こうした構造にあって9.11への報復、アフガニスタンイラクへの侵攻はアメリカ側につくか、テロリスト側につくかの二者択一を迫ることになった。「一つの世界」に対立しようとする存在は、アメリカ外交にとって、対立者以上の存在である。まさにこの思考様式は冷戦構造と同じである。ただ、対象が国家ではなく、テロ組織であるという非対称な関係にあるに過ぎなく、殲滅すべき対象であることに変わりない。


 こうしてみると、アメリカの現在の外交政策というのも、そのときどきで揺り戻しがあったり、不変ではないが、一貫してアメリカ建国以来の国是が外交に反映されていると見るのは、あながち間違った見方ではないだろう。
 そして、そうした理念(そして理念に結びついた国益第一主義)を持って外交を行う国が、冷戦終結後は唯一の超大国である、ということを考えると、これからの国際関係において、アメリカにどう接していくべきか、そのアメリカは今後、どのような外交方針を打ち出すのかが、考える手がかりを与えてくれるだろう。