あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

堂目 卓生『アダム・スミス―「道徳感情論」と「国富論」の世界』(中公新書)

【推薦】

 著者は大阪大学教授。専門は経済学史。
 「神の見えざる手」という言葉だけが一人歩きしているアダム・スミスであるが、経済理論ばかりに着目されて、思想史的な位置づけが一般的になされたとはいいがたいという歯痒さがあった。そんな渇きを潤すかのような著書である。
 スミスは寡作であったが、『感情道徳論』執筆によって名声を確立し、晩年になって『国富論』を著した。従って、スミスの思想を体系的に理解するためには感情道徳論も踏まえることが必要である。この視点に立って、著者はスミスの思想体系を論じる。

 『感情道徳論』においてスミスは秩序を導く人間本性について考察している。そこでのキーワードとなるのが同感(Sympathy)である。平たく言えば、自分がされて「嬉しい気持ち」になれば、相手も同様の行為を受けたときに嬉しいだろうし、自分がされて「イヤな気持ち」になれば、相手も同様の行為を受けたときにイヤな気持ちになるだろう、ということだ。つまりそうした感情の置換が社会の秩序の基本にあるのだとスミスは考えるのである。
 従って、この同感の考え方から、人間は他者への関心を持つと共に、また他者からも関心を持たれたいという一般命題へと導けると言うことである。このことは、次に二つ考えを導くことができる。一つ、同感によって、他者との関係性を持つことが社会の一般的な秩序形成の礎になるということ。二つ、他者から「良く思われる」眼差しが欲しいために、人間は私的利益の追求に向かう傾向がある、ということだ。

 繰り返しになるが、この私的利益の追求がスミスの経済理論における「神の見えざる手」という言葉に象徴される。この「神の見えざる手」によって構成される市場メカニズムこそが近代経済学のエッセンスといっても良い。しかし、そこから導き出されたスミスの思想は現在、いつの間にか「市場万能」主義的な色彩を帯び巷を席巻している。

 政治思想を専攻していた管理人からすると、この時代の思想家の特徴は前提となる個人の条件がそもそも違うのである。つまり、スミスに限らないが、近代市民社会に活躍した思想家の多くが、その前提として理性的でかつ自律した個人像というモノを描いている。
 そうした理性的・自立的な個人によって構成される社会であるから、市場は個人の選好によって、各人の自由な活動が結果、社会の富を最大化するのである。ここを勘違いしてはいけない。スミスのアタマの中で描かれる市場に参加する個人は、本能のおもむくままに好き放題するような人間ではないのである。自身の行動を、客観的に捉える(本書の表現を使えば自己の中に存在する「公平な観察者」による認識)ことができるまさに「近代的理性人」を想定しているのだ。
 つまり、市場社会にはそうした理性的な、フェア・プレーを受け入れる正義感が必要なのである。このことを新書レベルで分かりやすく説明したモノは本書が初めてではないだろうか。