あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

クリスマス・キャロル

クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫)

クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫)

 夏前くらいに読んだけど、時期が時期だけに改めて読み返してみた。

 イギリスの国民的作家、ディケンズによる短編小説。ディケンズといえば映画にもなった『オリバー・ツイスト』(でもDVDもまだ見てないんだよなぁ…)で有名か。歴史学社会保障論のテキストを読んでいくと、この当時のイギリスの社会状況を説明したものとしてディケンズの名前が出てくる。あと、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』も紹介されることが多い。
 19世紀半ば〜に活躍した作家だから、まぁ、確かにそんな側面があるだろうね。ついでながらオリバーツイストは1837-39年に書けての作品で、エンゲルスのそれが1844年だから、確かにな、といったところだろうか。ともかく、そうした社会状況であることをイメージしながら読んでいくと分かりやすい。

 主人公のスクルージは「並外れた守銭奴で、人の心を石臼ですりつぶすような情け知らずだった。搾り取り、もぎ取り、つかみ取り、握りしめて、なお欲深い因業爺である」と描写されるように、ケチな金持ちとでもいうのだろうか。ただし、自分自身にも贅沢をしないで、慎ましやかな生活を送っているので、ケチよりも吝嗇なのかなぁ、なんて思ったりもする。(ほぼ同じ意味の言葉だけど)

 そんなスクルージがクリスマスイヴの前日の夜に、7年前に他界した友人(にしてスクルージとは共同経営者だった)マーリーの亡霊と出会う。マーリーはスクルージの吝嗇を咎めるが、それは死後自分が受けた苦しみをスクルージにさせないための助言であった。

 その時マーリーが予言したことは、その晩からスクルージには3人(?)の精霊が交代で現れ、かれらの言うことをよく聞くことだという。確かに、その晩三人の精霊が現れ(一人目が過去のクリスマスの精霊、二人目が現在の、三人目が未来の…、精霊)、これらの精霊に連れて行かれる形で、スクルージは自らの過去の行いを内省することになる。
 身寄りがいなく、寂しいクリスマスを送った少年時代。奉公先で貧しいながらも、その日ばかりは親方の暖かな心遣いで楽しく過ごした青年時代。
 さらに、貧しいながらも、家族揃って清らかにクリスマスを祝う、クラチット一家(クラチット家の主・ボブはスクルージの事務所で働く使用人)など。

 精霊とともにこれらの様子を振り返るスクルージはこの小説の冒頭にあったような「なお欲深い因業爺」から徐々にかつて持っていたヒューマニスティックな心を取り戻していく。甥夫婦のクリスマスパーティの様子に心から楽しんだり、クラチット一家の末っ子の未来を真剣に案じたりするのだ。

 そして、最後に未来の精霊に連れて行かれ、クリスマスの日に死んだ、何者かの様子に出くわす。葬儀を前にして、誰からも哀悼されず、あまつさえ、身寄りのない故人の遺産を略奪し、人の死を商いのネタにして儲ける輩を目撃することで、スクルージは心を入れ替える決心をするのだ。
 そして、ボブの末っ子であるティムの死を知り、さらに、「クリスマスの日に死んだ、何者」が実はスクルージ本人であることを、無縁墓地の墓碑銘から彼は最後に知るのである。


 こうした3人の精霊と過去・現在・未来を旅したスクルージが目覚めた朝は、そう、「クリスマス・イヴ」の朝であったのだ。
 目を覚ましたスクルージがその後、どうしたのかの続きはどうぞ本編で。ということになるが、読後感としては、なんだか心の温まる話だなぁ、と素直に思ってしまった。(だとすれば作者の狙い通り)

 気に入った一節は

 「世の中良くしたもので、病気や悲しみが伝染する一方でまた、明るい笑いと善意ほど否応もなく人を巻き込むものもないというのは、実に公平で理にかなった粋な計らいである。」

 とか

 「以降、精霊との交わりはなかったが、スクルージは節欲の心で慎ましく生涯を送った。クリスマスの精神を本当に知る人がもしいるならば、それはスクルージだ、とはもっぱらの評判だった。世の中すべての人について、同じことが言えたらどんなに良いかしれない。タイニー・ティムに倣って、隅から隅まで、諸人に神の恵みを祈りたい。」

 かな。もちろん、管理人はクリスチャンじゃないんだけど。しかし、ヒューマニズムに基づいた他者への思い遣りというのは経済環境が一層厳しくなるなかで、必要とされるものじゃないのかな、とは思う。