あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

『近代都市とアソシエイション』

近代都市とアソシエイション (世界史リブレット)

近代都市とアソシエイション (世界史リブレット)

 アソシエーション(Association)はas(〜に)+soci(結ぶ)+ate(に結びつく)というassociateを語源に持つ言葉から分かるとおり、組合とか、連合とか、そうした結びついた団体を表す言葉。
 ただ、政治学的にはアソシエーションは、トクヴィルの「アソシアシオン」への言及からも窺えるとおり、「自発的結社」と言う意味で使われることが多い。今回のテーマである「近代社会とアソシエイション」も、そうした理解に沿って用いられていると思う。なぜならここで取り上げられる「アソシエイション」とはイギリス19c末にかけて大規模に花開いた労働者クラブのことだからだ。
 産業革命がいち早く進展したイギリスでは18c末から都市人口の急激な増加と、交通機関の発達により、富裕層が郊外(都市と地方の対比でいえばいずれも都市になる)へと移り住むという現象が起こってくる。19cには都市人口がイングランドの人口の80%にも達するようになるほど、都市化が進んだらしい。
 それと同時に、技術進歩によって、労働者たちの中でも徐々に生活の余裕と、余暇の享受が起こってくる。そうした条件によって「アソシエイション文化」というものがこの時代のイギリスにおいて生まれたのだ。

 したがって、タイトルで述べられる近代都市というのは19cイギリスを指す。当時の労働者たちにとって余暇の楽しみと言えば、パブに通い、酒をあおるような生活であった。しかし、そこへ経営者は(ウェーバーが節欲に励む資本家の態度こそが近代資本主義を生み出したと指摘するのと同様の発想で)労働者の能力や意欲を高めるべく「合理的レクイレエション」の導入を目指し、クラブ設立へと資金を出す。
 そうした経緯から設立された労働者クラブは、当初、ブラスバンドや演劇、バザーにスポーツ、ゲームを用意し、さらに遠足や学習会の企画を行う労働者への啓蒙団体的な性格を持っていた。しかし、経営者側から資金を拠出される労働者クラブは、先に言ったように啓蒙主義的な性格が強く、労働者の余暇の娯楽としては不十分である。したがって、労働者自身が主体的に運営していく労働者クラブが誕生することになる。ここでは当然のことながら、飲酒可能であり(むしろ収益の観点から積極的に奨められたのだろう)、規模を拡大すべく娯楽性を高めてゆく。一方で、娯楽性が高まることに反比例して、労働者への啓蒙性は減退していくのだが、それでも(労働者が主体となったクラブにおいても)、学習会や遠足などの企画はなくなることなく続いていくあたりは興味深い。
 これを著者は「シティズンシップのゆりかご」と読んでいる。つまり、普段の交友関係では築くことの出来ない人間関係(文化や芸術に関心を持ち、学問熱心な労働者)をアソシエイションによって築くことが出来る。それによって、労働者たちの見聞が結果として広まるというのだ。
 ただ、そこにはかつてのチャーティスト運動に見られたような全国的な、国政レベルの政治的関心は後景に退いていく。代わって、身近な地方政治の参加が盛んになってくる。アソシエイションによって築かれた人間関係によって、地方政治がまさに「民主主義の学校」(J.ブライス)のような役割を果たすことになる。そうした、「アーバンデモクラシー」の主要な担い手に、クラブメンたちはなってゆくのだ。
 自発的に生まれた労働者クラブは、その「自発性」ゆえに出自や人脈による上下関係はない。さらに政治的、あるいは文化的な多様性が存在するアソシエイションである。多様性は彼らにとっての重層的なアイデンティティを構築する礎を与えてくれる。クラブメンとしての個人、家庭における個人、さらに職場での個人と、幾重にも存在する「親密権」の存在がかれらを「雑多で多彩なローカル色の並存」を可能にし、彼らの視点を、ローカルかつグローバルなモノへとするのだ。
 こうした現象が特に19cに至って特徴的に現れるからこそ、著者はこの時代を「アソシエイション文化」と表現しうるのである。
 もちろん、アソシエイションと言っても万能ではない。そこには様々な問題も当然に存在する。労働者クラブは基本的に成人男性労働者のモノであり、女性や貧者にとって開かれた存在ではなかった。そこには隠しようもない閉鎖性が存在して、しばしばメンバー内でさえ排他的行為に及ぶことすらしばしばであったという。
 しかし、そうした、自発的なアソシエイション文化が、福祉国家成立以前の社会において、共助(本書においては「集団的自助」)を実践したという事実は記憶されておいて良い。なぜなら、サッチャリズムによる「ビクトリア時代の美徳」の背景、「レッセ=フェール」を実現できた前提条件として、そうしたアソシエイションがソーシャル・キャピタルとして存在していたからである。

 本書においてはブックレットという分量から、同時代におけるアメリカの(トクヴィルウェーバーが発見したアソシエイション)、またはフランスのアソシアシオンについての論究は全くなされない。しかし、繰り返しになるが、著者が指摘するとおり、重層的なアイデンティティの構成が、一人ひとりにローカルかつグローバルなパースペクティヴをもたらしうるという指摘は昨今の社会状況を考える上でも重要だろう。