あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

【読書メモ】「戦争体験」の戦後史 part1

 反戦運動団体や平和団体は数多く存在するが、日本戦没学生記念会わだつみ会)が採り上げられる理由は、それが「戦争体験の伝承」や「戦争体験の思想化」を掲げる数少ない団体であったからである。そして、わだつみ会には多くの知識人が集まっていたという理由もある。そのことからも、「わだつみのこえ」きっかけにして、それを巡る言説を追うことによって、「戦争体験」というものが、世代間、時代によってどのように異なるのかを知ることが出来ると著者は考えている。
 では、なぜ『きけ わだつみのこえ』が戦後ベストセラーになったのか。ほかにも多くの兵士が戦場で斃れるなかで、なぜなのか。そこに著者は「教養・読書を通じた人格陶冶」が当時庶民層にも少なからず共有されていた、と考える。それゆえに「インテリの手記集であったがゆえに、国民に広く読まれたという側面もあった」のである。(もちろん、再軍備問題や講話問題という社会状況も否定しない)

 とはいいながら「わだつみのこえ」への共感ばかりが集まったわけではない。批判も少なからず存在していた。それは彼らが記した手記への「反戦」の有効性を疑問視するものである。学徒動員された彼らよりも上の世代からすれば、(学徒兵たちは)マルクス主義をはじめとする社会化学的な教養に欠け、人文科学的な教養しか持てなかった。かれらの教養の少なさは戦争という国家行為を批判的に考察するだけの視野を欠いたものだという批判なのだ(例えば、出隆など)。
 彼らと同世代である船喜順一も学徒兵たちが社会的な視野を欠き、内省的な方向へと思考することしかできなかった戦没学生の限界を指摘する。だが、そのことは、そうせざるを得なかった彼らの無念の表明であり、彼らの後悔の念を汲み取ることこそが死者と真摯に向き合うことに繋がると考えた点で戦前世代の批判とは結論部分で異なる。

 だが、先に挙げた戦前世代と、それ以降の世代には「教養」を巡る大きな断絶がある。田中耕太郎や和辻哲郎など、大正教養主義で自らの教養を培った世代からすれば、「わだつみのこえ」に代表される戦没学生の声を頼りに反戦平和運動を行うことは、好ましいものではない。つまり、本来であれば教養を充分に身につけた上で、政治へ関与すべきなのに、当時の学生たちの平和運動はまさに学生の本分を忘れた行動であり、政治過剰な状態である。従って、学生の浅薄さを彼らは批判するのである。
 このような戦前世代の批判は、それ以降の世代の反発を抱かせることになる。世代間断絶というヤツだ。大正教養主義の権化のようになった彼らから、ある種の「教養の暴力」を若い世代は感じ出す。ちょうどその頃『世界』に丸山眞男が「超国家主義の論理と心理」を発表し、大きな反響を呼ぶことになる。これをきっかけに論壇では丸山をはじめとする若手中心に世代交代が行われ、かつての自由主義者たちはその教養への憧憬ゆえに徐々に保守化していくことになる。

 1958年、第一次わだつみ会は解散する。慢性的な資金不足と先に挙げたような内部対立などが原因であった。しかし、それから1年と立たない翌1959年に第二次わだつみ会が発足する。第二次わだつみ会は、(第一次わだつみ会と異なって)政治主義を忌避し「戦争体験の語らい難さ」を強調する。その中でも際だっていたのは常任幹事を務めていた安田武であろう。
 戦争体験に根ざした「祈り」を政治運動や反戦運動から切り離し、戦争体験の一つひとつが抽象化一般化できない、かけがえのないものとして捉えていく。安田はそのことに拘るがゆえに「死者の死そのものを問いつめ」、「他人の死」から自らに快い意味を付与するような「右」や「左」の政治的解釈を拒否するのであった。
 そしてこの頃「戦中派」という認識が生まれだしたのである。戦前世代と比べ、教養を身につけられず、戦後世代のように充分な教育を受けることのない自分たち自身の世代に対する一種の「引け目」が彼らを「戦中派」と認識させることになった。戦中派の置かれた困難な時代、戦争は、多くが学ぶ機会を奪われ徴兵され、下級兵士として戦闘の前線へと送られるか、無謀な特攻攻撃に動員され、多くが還らなかった。戦中派は考える。「そうした体験を強いたのは一体誰だったのか?」と。
 戦中派の教養不足をなじる大正教養主義の戦前世代は、確かに教養を身につけ、社会に対する批判的な視点を持ちあわせていた。ところが、戦争が勃発する中で多くが転向するか沈黙を守り、直接間接的にあの戦争に荷担していった。にもかかわらず、戦後、戦前世代は自らを平和への使徒のように位置づけ、相も変わらず戦中世代たちの教養の不足を批判する。そんな「居丈高なお説教」はウンザリなのだ。
 だからこそ、安田をはじめとして、第二次わだつみ会は現下の政治的問題に没入せず、その死の語らい難さ、死の無意味さを深く掘り下げることで、戦争体験の思想化を図ろうとしたのである。このことは、安田らが政治的な問題を避け続けたことを必ずしも意味しない。「死の無意味さや錯綜した戦争体験の語りがたさにこだわろうとすると、どうしても虚無感や無力感がつきまとう。だが、その虚無感や無力感には『いかり』が内在していた。安田は、その起点には、虚無感に根ざした『怒り』」が存在していたことを指摘している。