古関彰一『日本国憲法の誕生』より。
- 作者: 古関彰一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/04/16
- メディア: 文庫
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1989年の刊行時点で不明だった点も資料や研究がかなり出てきたおかげで随分明らかになった、という。
自分で読書メモをしようと思ったら、岩波のHPに要を得た内容があるので、そこから転載しつつ、思ったことをメモってお茶を濁す(笑い)。
1945年10月4日にマッカーサーが近衛との会談で憲法改正を要請したのが問題の発端でした.内大臣府御用係として近衛が憲法改正の主導権を握ろうとしたが,それは政府側の抵抗に遭います.直後に組閣した幣原喜重郎内閣が憲法問題調査委員会を設置し,憲法改正の主導権を握っていくことで,日本国憲法の誕生の布石が固められていくのです( I 章)
しかし,民間にも憲法研究会に代表される構想や政党案など含めてさまざまな草案が存在し,豊かな憲法構想が存在していました(II章)
この憲法研究会、確かに高野岩三郎や鈴木安蔵、森戸辰男など、当時の学会にあっては傍流であった(傍流と言うよりもむしろ在野、といった方が正しい)。けれど、終戦直後の時点で、日本社会におけるエスタブリッシュメントであるということは果たして何を意味するのだろうか、と問うたときに、それは結局「大日本帝国憲法に上から下まで浸かっている」人間じゃない限り、それは無理だったのではないだろうか。
この憲法研究会の草案が極めて進歩的だったがゆえに、GHQ民政局は、マッカーサー3原則にこの草案を組み合わせることでGHQ草案を作り得た、とさえ言えるだろう。
では、高野たちは一体、草案作りの歳にどの憲法を参考にしたのだろうか、といえば、それは自由民権運動における私擬憲法であり、さらには諸外国の憲法(生存権を規定したワイマール憲法など)であるという。
「高野にとって…せいぜい大正デモクラシー時代しか知らず、自由民権時代を知らない、森戸、大内あるいは鈴木とは違って、高野には戦後にかける別の情熱があった。」このとき既に74歳になっていた高野にとって、戦後民主主義は、自らが幼少期に経験した自由民権運動の「下からのエネルギー」をもう一度取り戻すための最後の契機だったのだろう。
しかし、中江兆民、植木枝盛らの自由民権運動にかける意気込みは相当だったはずだ。東洋大日本国国憲按にもみられる革命思想の先駆者としての植木や、日本社会で「シビル」と「ポリチカル」概念の確立を模索し続けた町民らの、自由民権運動。この空気を吸った高野の思いが、敗戦直後の混乱期にありながら、メシの種にならない憲法研究に取り組むのだから、その情熱は当然推して知るべしだろう。
一方,10 月25日に設置された憲法問題調査委員会(国務大臣・松本烝治委員長)での議論が進み,12月8日には
憲法改正の4原則が松本によって発表されていますが,そこには憲法九条の戦争放棄構想などは示されていないことが重要です.1946年2月1日に毎日新聞が「憲法問題調査委員会試案」として憲法改正案の一つをスクープすることによって,GHQでも翻訳されマッカーサーの知るところとなったことが有名ですが,その内容は,明治憲法の修正にとどまっていたのです(III章).
マッカーサーはもちろんその中身に不満であり,GHQの民政局(GS)で極秘裏に憲法案を作成することを決意します.2月3日に彼が提示した三原則とは,天皇は国の最上位にあること,戦争を放棄すること,封建制度の廃止でありました(IV章).
自由民権運動以来の民主主義をもう一度生みだし、その可能性を新星日本に「懸けた」高野に対して、体制側で「出来上がってしまった」人々による改正案には限界があったのだろう。彼らは大日本帝国憲法の体制下で何の不自由も生じてないのである。そして、マッカーサーの草案が内示されるまで、日本政府関係者は自分たちが置かれている状況を気づくことがなかったのだ。
だがそれは彼らを批判するには当たらないだろう。彼らが自ら築き上げてきた立場が、大日本帝国憲法体制というレジームをチェンジするという発想を生み出すだけの環境を作らなかったのだから。逆に、政府内に、憲法研究会案のようなモノを作るだけの柔軟さがあるのであれば、そもそも戦争なんて起こらない。