あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

『はじめての部落問題』角岡伸彦著

はじめての部落問題 (文春新書)

はじめての部落問題 (文春新書)

 「4代つづいた“生粋の部落民”」と自称する著者による部落問題への入門という位置づけ。部落の成立から、その差別構造、現状などを、自身の体験を踏まえながら明るい筆致で説明している。

 まずはじめに呼称の問題があるだろう。「同和」問題ではなく、「部落」問題とわざわざ著者が拘って表記する同期には、呼称の変更は根本的な解決にはならないという著者の信念があるからだろう。(つまるところヤクザや極道を暴力団と言い換えているのと同じで、差別構造に変化はない、ということらしい)
 だからといって、呼称の問題は結構重要だろうと個人的には思う。PC(ポリティカル・コレクトネス)の議論になってしまうが、極端な話、爺や婆をお年寄り、と表現するのは案外大切だろうと思う。言葉の響きって言うのがあるじゃない?なんて管理人は思ったりする。だって「びっこ」とか「つんぼ」とか「めくら」なんて今どき言わないし、これらの言葉が持つキツ目な響きはやっぱりそこに差別感情がなければ使われないと思う。
 (とはいえ、本エントリでは著者の意向を踏まえて「部落」と表記する)

 ところで、部落の起源は諸説がある。しかし、近年では近世起源説は否定されていて、中世以前から被差別民の存在はあったというのが定説なのだそうだ。中世の「河原者」にしかり、「皮多」とよばれ食肉解体や皮革業に従事する人々はその職業柄ゆえに被差別の対象となった。
 そうした人々を身分的に固定化し、穢多村として定住させたのが江戸時代であるといえるだろう。だから、部落問題事態は江戸以前からあったが、それが差別構造として社会制度に組み込まれるのはやはり江戸時代(とりわけ中期以降、儒教的道徳観が高まり「身分」が重用されることに連なる)だという認識は正しいと管理人自身は思う。
 人々の認識のレベルと、それを為政者が社会制度として組み込むレベルとではやはり決定的に違うというのが個人的な感想だからだ。しかしながら、部落民である、というだけで殺害された事件もある(明治時代)と言うから、人間の差別感情というのは時に救いがたいものがある。

 そんな歴史を持つ部落であるが、では全国でどれだけの「部落」があるかと言えば、政府の調査によれば1963年の時点で4160地区、人口にして186万人が存在していた。ただ、これは自分たちの地区が部落であると申請しなかったケースも多々あるため、実数はこれ以上であったと思われる。従って、実体はともあれ、東北地方には名目的には部落は存在しないことになっているらしい。
 現在では、とりわけ都市部に住んでいると人口の入出があまりに激しくて、どの地区が部落であるか、というのは判然としない。しかし、地方に行けば未だに「ここから先は部落」みたいな合意がその地域ごとに出来ていると言うらしい。このへんは、地方に住んでいないと分からない感覚だ。
 1871年に賤民制が廃止される。ただ、現在でも釣書を「見るひとが見れば」分かるらしい。ただ、ここで著者が指摘するように、このようにして存在してきた部落問題について、「部落民は自らが築いた集団ではない」という指摘はもっともだと思う。部落という呼称は土地概念ではあるが、そこに住んでいるという土地に関わる者ではなく、血脈や被差別体験あるいは認識問題など非常に広範囲に及んでいて、それらが重層的に関わりながら今日の部落問題を形づくっているともいえる。


 こうして現在も続く部落問題であるが、政府による同和対策事業並びに人権教育の結果、目に見える形での差別は過去に比べれば減少してきたといえるようだ。(その意味において部落解放運動には成果はあった)まあ、確かに、道を歩いていて、部落民であるというだけで殺されるという時代ではなくなっただけ、進歩しているとはいえるが、それでも以前として差別が残っているというのも現実だろう。
 とりわけ、現在でも残る差別問題で、大きな役割を果たしてしまうのが日本の「家制度」であろう。特に結婚に際して、地方ではコレがネックになる場合が多い。つまり、「先祖から受け継がれる血族集団」つまり「血筋」がここでは非常に重要なのだ。だから自分の家に部落民の血が混ざるのは「ご先祖に対して申し訳がない」ということになる。管理人には理解がまったく出来ないが、現実問題として21世紀の現在においてもこのように考える人々が多くて、その結果、結婚を断念せざるを得ないケースが存在するという。
 また、そうした家制度とならんで問題なのは「世間」の目というものだ。つまり、自分の結婚相手(または息子や娘の結婚相手)が良家の子息であればバンザイで、せめて一般家庭であってほしく、世間的に部落出身者とは結婚したくない・結婚して欲しくないと望むようだ。友達として部落民がいてもそれは問題がない。しかし、結婚となると…という消去法としての「普通願望」これが案外根深いともいえる。


 こうした部落問題に対するステレオタイプは、実は人権教育にも当てはまる。部落の人々は差別され苦しい状況におかれても、その中で一生懸命生活していて…というような過度なプラス評価も、また、反対に、…ゆえに犯罪を犯しやすく粗暴である、というようなマイナス評価も、そのどちらも部落問題を一面的に、全体化して捉えてしまっている陥穽に陥っている。だから、部落であっても、非部落であっても、そこはまったく変わらないという相対化が必要である、と著者は述べる。
 それはまったくその通りで、同和利権を喧しく主張する人たちがいるが、それもまたステレオタイプに過ぎない。部落解放に取り組むヒトがいる一方、それを利用して、利権を食い物にするヒトがいる。部落問題に必要な視点は、彼らは特殊でも何でもない、フツーのヒトであるというごくごく当たり前の視点であろう。

 ただ、その当たり前さがなぜ持てないかというところに、人間の弱さがあるのだろうけれど…。

 「私は運動団体のメンバーにありがちな部落民の誇りもない。私は自分が選べないもの―たとえば日本人であること、男であること、部落に生まれ育ったこと、血液型がB型であることなど―に誇りを一切持ったことがない。男やB型であることに誇りを持っている人物がいたら変である。いても構わないがあまり友達にはなりたくない。自らが選択できなかった日本人であることに誇りを持て、というのもおかしいと思うし、同じ理由で部落民としての誇りなどない。ただ、選べなかったもの、消極的な選択であっても、それを否定することは出来ないのである」

 にもかかわらず、そこに誇りを見いだす人間の何と多いことか…。